歴史を見ると日本にとって、中国とはホントに先生のような国だった。
古代ではきっと世界最高の文明国だった唐で、遣唐使が先進的な文化や文明を学んで持ち帰り、日本を発展させた。
このころの日本人にとって中国があこがれの対象だったことは、中国の都の「洛陽」や「長安」にちなんで、京都をそう呼んでいたことからも分かる。
近現代になると中国は、「こうなってはいけませんよ」ということを体を張って教えてくれる反面教師になった。
1840年に清がイギリスとの戦争(アヘン戦争)に負けたのを知って日本は驚がくし、西洋列強の強さや脅威を思い知ることになる。
それで幕府は、「西洋船がきたらとにかく追い払え!」という強硬な鎖国政策をゆるめて、西洋船に食料や水などを提供する薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出して、態度がちょっと友好的になった。
10月8日(旧暦9月15日)という日は、19世紀の清朝にとってはわりと不吉で重要な日。
まず1811年のある日、夜空に明るい彗星が現れたことから話ははじまる。
『北斗の拳』では北斗七星のすぐ近くに小さく輝く星・死兆星が見えると、その人物は死ぬことになっている。
いわゆる死亡フラグだ。
むかしの中国では天体現象を、天帝の意思の表れとする見方があった。
農民や商人などを信者とする天理教のリーダーで、清朝の打倒を考えていた林清(りん せい)は彗星の出現を、天が自分たちの計画を祝福してくれたのだと理解する。
(この天理教は乱は白蓮教の一派で、日本の天理教とはまったく関係ない。)
一方、清朝(北京)の人間は、この彗星を清王朝の偉大な栄誉を天が示してくれたのだと考えた。
で、1811年に現れた彗星はどっちの死亡(生存)フラグだったのか?
それから2年後、いよいよ決起のトキがきた。
天理教の集団が武器を持って北京へ侵入することに成功すると、1813年10月8日、皇帝の住む紫禁城を襲撃する。
この癸酉(きゆう)の変(または天理教徒の乱)では、後の道光帝となる皇子が軍を率いて抗戦し、激しい戦闘によって信者は全滅。
林清は捕えられて、中国の刑罰でもっとも残酷で恐ろしい凌遅刑に処された。
この宗教反乱は失敗に終わったから、あの時の彗星は林清の死亡フラグだったことになる。
でも賊が首都・北京で蜂起し、さらに紫禁城の中に入り込んだという前代未聞の事態は、清朝政府の人間にはかり知れない衝撃を与えた。
皇子が銃を撃って、直接敵と交戦したというのも考えられないことだ。
この反乱は長い目で見ると、清朝滅亡フラグのひとつになる。
林清
癸酉の変の30年ほど後にアヘン戦争が起きて、清はイギリスにボッコボコにされる。
そんな隣国を見て東アジアを取り巻く国際情勢を知り、日本はそれに合わせて改革していったから、最終的には「勝ち組」になることができた。
イギリス国旗を下ろす清朝の役人
アヘン戦争で敗北した後、1856年に第二次アヘン戦争と言われる「アロー戦争」が起きて、清はここでもまたフルボッコ。
この戦争のきっかけは10月8日に、清の役人がアロー号という船に乗り込んだこと。
イギリス側はこのとき清の役人が国旗を引き下ろして、イギリスを侮辱したと主張し激怒した。
それで、フランス人宣教師が処刑されたことに怒っていたフランスを誘って、英仏連合軍と清との戦争がぼっ発する。
空に流れる彗星を見て、「天が自分たちを祝福してくれた!」と感激するレベルではなくて、高性能の近代兵器を持った英仏軍に清が勝てるわけない。
連合軍は1860年に北京を占領し、清朝に北京条約を結ばせた。
これで清は英仏に対して、
・800万両の賠償金を支払う。
・首都に近い天津を開港する。
・中国人移民を認める。
といったことを約束する。
奴隷に代わって、苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者が海外で働くことになったのはこの時から。
このアロー戦争も日本に影響を与えた。
アメリカの領事だったハリスは、イギリスが日本に攻め込んでくる可能性を示唆して幕府に圧力をかける。それもあって、1858年に日米修好通商条約が締結された。
1862年に高杉晋作が上海を訪れたとき、中国が欧米の植民地に等しいみじめな状態になっているのを見て驚き、「日本がこうなってはいけない」という思いを強くした。
この中国での体験がなかったら、その後の高杉晋作の活躍もあり得ない。
古代でも近現代でも、中国は日本に本当にたくさんのことを教えてくれた。
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