【死なせるものか】明治日本人による外国人救出、5つの事例

 

「本日天気晴朗なれども波高し」

日露戦争がおこなわれていた1905年5月27日、東京の大本営にこう打電して日本艦隊はバルチック艦隊との決戦に挑む。
(敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し)

そして当時世界最強と言われた「バルチック艦隊」を叩きのめし、日本は世界史に残る大勝利を収めて世界を驚かせた。
この歴史的な”ジャイキリ”で、艦隊司令長官だった東郷平八郎は日本人として初めてTIME誌の表紙を飾ることとなる。
そんな日本海海戦のことは知っていたけど、これは初耳だ。

共同通信の記事(2022/10/16)

露艦隊救出「町の誇りに」、島根 江津市で語り継ぐ祭り

この海戦でダメージを受けたロシアの輸送船イルティッシュ号が、いまの島根県江津(ごうつ)市の沖合までやってきて、やがて動けなくなり沈没する。
「これを撃滅せんとす」という敵であっても、困っている人間を見捨てることはできない。
このとき住民が必死の救助活動にあたって、乗組員200人以上を助けた。(イルティッシュ号投降事件
それを誇りとして江津市で最近、ロシアとのつながりに理解を深める「ロシア祭り」がおこなわれたという。

 

自分のことは顧みず、とにかく全力で他人を救おうとする。
そんなすばらしい態度を「和泥合水」(わでいがっすい:泥にまみれながらも他者を救済する)という。
「死なせるものか!」と明治時代に、日本人のそんな精神が発揮された良き事例をこれから紹介しよう。

ロシアについては、上のほかにもディアナ号がある。
1853年に安政東海地震が起きて、津波の直撃を受けたロシアの軍艦ディアナ号が駿河湾で沈没。
すると、付近の村人が救助活動をおこなって乗組員の命を救う。
そしてプチャーチンは下田で幕府の役人と日露和親条約を結んで、無事に部下とロシアへ帰ることができたのだった。

【幕末のイイ話】ロシアのプチャーチンとしたたかな日本

 

 

その20年後の1873年、中国の港を出港したドイツのロベルトソン号がオーストラリアへ向かっていると、運悪く台風と遭遇する。
強風によってマストが折れたロベルトソン号は漂流し、2名の死者を出して8名の乗組員を乗せたまま宮古島へ流れついてそこで座礁する。
それを見つけた宮古島の人びとは波が高くて危険な状況のなか、船を出して何とか8名全員を救い出す。

【ロベルトソン号事件】ドイツ皇帝が感動した日本人の“仁”

 

知人のトルコ人に言わせるとトルコでの日本の印象は、控えめてに言って最高レベル。
その理由として彼はエルトゥールル号遭難事件をあげる。
1890年にトルコのエルトゥールル号が和歌山県の沖合で台風とぶつかって沈没し、約600人の乗組員が死亡した。
でも、付近の住民が船を出して懸命の救助活動をしたことで69人が助け出されて、その後、日本海軍の巡洋艦でトルコへ送り届けられた。
同時に犠牲者に対する義援金の募集がおこなわれる。
これに「全トルコが泣いた」というほどトルコ側は感激して、日本との友好関係のはじまりとなった。

トルコ大使が日本の小学生に感動した理由。エルトゥールル号事件

 

最後はわが浜松だ。
1875年に横浜から長崎へ向かっている途中で、イギリス船のジェームズ・ペイトン号が台風に襲われ(またデスカ…)、遠州灘で力尽きる。
沖合いで座標している船を見つけると、「義を見てせざるは勇無きなり!」といまの浜松市南区の住民が、ジェームズ・ペイトン号と陸を一本の綱で結んで、乗組員15人を救出した。
そして住民は彼らに酒や食べ物を提供して、ちょっとした国際交流を経験する。
このあと英公使ハリー・パークスから、「あの時はお世話になりました」と住民へ感謝状と謝礼が渡された。
明治8年 船員たちの命を救った福島村での救出劇 – 浜松市

困っている人を見つけたら、ロシア人でもトルコ人でもドイツ人でも、敵であっても「死なせるものか!」という思いから明治の日本人は決死の救出活動をした。
そのことは現在を生きる日本人もぜひ知っておこう。

 

 

ヨーロッパ 「目次」

日本 「目次」

【日露戦争】日本とロシアの開戦理由・韓国に冷酷だった世界

【日本人とタイ人の良い関係】協力&応援に、感謝のメッセージ

ヨーロッパ人が話す日本人との違い:権利と主張・規律と協調性

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。