日台と書いて「みつげつ」と読む。
そう言われても違和感を感じないほど、このところ日本と台湾の関係はすごくいい。
先日10月27日はそんな日本と台湾に関して、とても重要な出来事が2つもあった象徴的な日だ。
日清戦争の勝利によって日本は清国から台湾をもらって、1895年から1945年まで統治することとなる。
その間には日本への抵抗運動があって、1930年10月27日、最大規模の抗日蜂起事件である「霧社事件」がぼっ発した。
そして次はこれから紹介する、1949年10月27日の古寧頭戦役(こねいとうせんえき)。
1945年に日本がアメリカに降伏すると同時に台湾統治も終了し、日本は中国大陸から軍を引き上げる。
こうして日中戦争が終わり、日本という共通の敵が消えたことで、中国では国民党と共産党が協力して国家建設にまい進していくーー。
というお花畑的な展開にはならず、今度は国の統治をめぐって対立し、「第二次国共内戦」が始まった。
国民党と共産党は「敵の敵は味方」理論でタッグを組んでいたから、互いにとっての敵がいなくなると「昨日の味方は今日の敵」という状態になる。
戦いは共産党有利で進んでいき、1949年に毛沢東はついに北京で中華人民共和国の成立を高らかに宣言する。
この段階までくると、もはや国民党の軍では中国人民解放軍には歯が立たない。
解放軍は「落ち武者狩り」のように国内にいた国民党軍をせん滅していき、「もう無理っぽい…」と思った蔣介石は国民党のメンバーと一緒に中国大陸から台湾へ撤退する。
これ以上ないほど弱体化して、九州ほどの大きさの小さな台湾島に逃げ込んだ国民党と、中国大陸の覇者となった共産党。
圧倒的に優位に立った共産党(解放軍)に残った最後の仕事は、台湾に攻め込んで国民党を壊滅し、台湾を含む全中国を統一するのみ。
第二次国共内戦は最終局面を迎えた。
根本 博
蔣介石と国民党が大ピンチになったころ、元日本陸軍の中将・根本博は「釣りに行ってくる」と家族に言って家を出ていき、そのまま台湾へ密航する。
アメリカから軍事支援の打ち切りを伝えられて、絶望しか見えなかった蔣介石の前に根本が現れて、2人はがっしりと手を握った。
蔣介石から軍事顧問に任じられた根本は人民解放軍との戦いを想定し、厦門(アモイ)は捨てて、そのすぐ近くにある「金門島」で迎え撃つことを提案する。
これが受け入れられて、金門島は決戦の地となった。
ここが絶対的な防衛ラインで、突破されたら国民党政府はまず間違いなくジ・エンドだ。
金門島の海岸に約7500個の地雷を埋めたり、約200個のトーチカを建設して根本が最終決戦に備えると、1949年10月25日、中国大陸から解放軍がやってきて「古寧頭戦役(こねいとうせんえき)」が始まる。
台湾の中華民国政府にとって「絶対に負けられない戦い」となったこの一戦は、10月27日に人民解放軍が降伏して終了。
根本と中華民国軍がここを死守したことで、中国共産党の全土統一の悲願は夢に終わった。
漢・根本博についてくわしいことはこの記事を。
日台と書いて「みつげつ」と読む理由のひとつが、古寧頭戦役での根本博の活躍にある。
1930年10月27日の霧社事件は、中国(清)から譲渡された日本の台湾統治における重大事で、1949年10月27日の古寧頭戦役の結果は中国・台湾にとって、現在につづく決定的なものになった。
ということで、日本・台湾・中国にとって10月27日はとても運命的な日なのだ。
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