ある会社で、有能な専務が才覚を発揮して力をつけていき、そんな専務に従う社員が出てきたとする。
となると、社長に忠誠を誓っていた社員はこの勢力に反感を持つから、社内は社長派・専務派の2つのグループに分かれて対立することになる。
日本のお家芸「派閥争い」のぼっ発だ。
鎌倉時代に起きた霜月騒動もそんな権力争いに似ている。
まず鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係で成り立っていたのだが、時代が進むにつれて内部の権力構造が変化して、執権を務める北条家(得宗)が実質的なナンバーワンになる。
1221年に起きた承久の乱は朝廷側と幕府の北条義時(執権)との戦いで、このときの将軍の存在感の無さはまさに空気。
執権を務める北条家の中で執事だった平 頼綱(たいらのよりつな)が力をつけていくと、頼綱と主従関係を結ぶ御内人(みうちびと)という武士が増えてくる。
平頼綱の勢力が台頭してくると、北条氏の次に力を持っていた御家人の安達泰盛(あだち やすもり)としてはイライラが止まらない。
そんなことで鎌倉幕府は「平頼綱&御内人」のグループと、「安達泰盛&御家人」の2つに分かれて対立するようになる。
この権力争いが「霜月騒動」に発展し、先制攻撃をしかけた頼綱の軍が泰盛とその一族を滅ぼしたことで、鎌倉幕府が始まったころからの有力御家人は壊滅する。
この霜月騒動は将軍の権威を重視した安達泰盛のグループと、北条家(得宗)を重視した平頼綱のグループとの争いだったから、「将軍問題」がその原因にあったことになる。
承久の乱からも分かるように、北条家は頂点にいて鎌倉幕府を動かしていた。
娘の政子が源頼朝の妻になって、頼朝の幕府成立に協力してきたことで、初代執権の北条時政は別格の有力御家人となり、北条家は一大勢力として存在感を発揮する。
そして2代目執権となった義時のときから、他の有力御家人を消していって、北条家による執権政治を確立させていく。
霜月騒動はいわばその総決算だ。
敵を次々と排除していくことで鎌倉幕府は、『うちの師匠はしっぽがない』のキャラ・まめだのセリフでいうと、「っしゃー! 無双! 私の天下! 」という北条一強となる。
でも、北条家の人間では将軍になれなかったから、名実ともに鎌倉幕府のナンバーワンにはなることはできなかった。
「源氏」とは皇族が臣籍に降下した(一般人になる)ときに与えられた姓で、そのルーツは天皇にある。
源実朝が暗殺されて、頼朝以来の源氏将軍が途絶えると、頼朝の妹のひ孫にあたる2歳の男の子(後の藤原頼経)が将軍として迎え入れられ、以降、「摂家将軍」がつづくことになる。
敵を蹴落として、どれだけ強大な力を手に入れたとしても、もとは伊豆地方の武士にすぎなかった北条家の人間が「貴種」になることはない。
北条家出身ではどうあがいても、頼朝の血を引く2歳児を上回ることはできなかった。
将軍を倒して自分が新将軍を名乗っても、朝廷や他の武士から認められることはなかったから、それは無効化されるはず。
『fate』のギルガメッシュなら、「分をわきまえろ!雑種!」と一喝するところだ。
ということで北条家は「無双!私の天下!」と叫ぶことはできても、天皇を中心とした身分や血統の壁を越えることはできなかったから、鎌倉時代では“永遠のナンバーツー”に甘んじるしかなかったのだ。
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