金も地位も名誉もあって、誰もが「ホントにうらやましいっす」と思うような人が、突然そのすべてを失って頂点から奈落へ落ちたとする。
すると世間は「メシウマ」となるかもしれないが、本人としては、気が狂ってしまいそうなほどの激情にかられる。
そして「お~の~れ~~~」と、激しい怒りのなかで死んでしまうことを「憤死」という。
この憤死についてワールドワイドに有名な人物に、ローマ教皇のボニファティウス8世(1235年ごろ – 1303年)がいる。
当時は神の代理人として、全ヨーロッパの頂点に君臨していた(とおそらく思っていた)ボニファティウス8世は、フランス王フィリップ4世に対し自分に服従せよと迫る。
するとフィリップ4世が逆ギレ。
1303年に教皇がイタリアのアナーニに滞在していると、フィリップ4世の家来に襲撃されて、顔を殴られたうえに数日間、監禁されるという恥辱を味わう。
これが高校世界史でならう「アナーニ事件」だ。
この後、ローマに戻ったボニファティウス8世はすぐにコロッと亡くなってしまったから、人々は怒りのあまり教皇は「憤死」したと考えた。
この伏線に1077年の「カノッサの屈辱」がある。
ローマ教皇グレゴリウス7世と対立したローマ王ハインリヒ4世は、最後には負けて、赦(ゆる)しを得るために雪の降るなか、教皇のいるカノッサ城の外で裸足のまま3日間も祈りを続けた。
逆らえば国王にさえ、ここまでみじめな思いをさせられるほどの権力があった。はずなのに、アナーニ事件では、雑魚キャラレベルの家来に顔をたたかれるという屈辱を味わったのだから、人々に憤死と思われるのも当然かと。
ローマ教皇を象徴する「天国のかぎ」を持つボニファティウス8世
憤死した有名人で、西洋にボニファティウス8世がいるのなら、日本には「菅原道真」がいる。
とても優秀な頭脳の持ち主で、忠臣だった菅原道真は宇多天皇に気に入られ、次の醍醐天皇にも重宝され右大臣にまで昇進した。
*天皇を除いて、この時代の朝廷内でのランクは太政(だいじょう)大臣が1位で、左大臣と右大臣がナンバーツー。でも実際には、左大臣のほうがチョット上にいる。
才能と誠実な態度によって、昇竜拳のように出世していく菅原道真。
だからこそ、気に入らなかった左大臣の藤原 時平(ときひら)が、
「道真のヤツはおそれ多くも醍醐天皇を追い出して、別の人間を天皇にしようと企(たくら)みやがっています」
といったことを進言すると(もちろんウソ)、醍醐天皇は「マジかよ、あいつサイテーだな」と信じてしまう。
時平のワナにはめられた道真は地位をはく奪され、九州の太宰府へ左遷されて、子供たちも流罪になった。
901年に、菅原道真の人生と名誉が一瞬で崩壊したこの事件を「昌泰(しょうたい)の変」という。
太宰府までの移動にかかる費用はすべて自分持ち。
左遷された後は給料ももらえなかったし、世話係もつけてもらえず、道真は怒りを抱えたまま憤死したという。
「頂点」から転落し、屈辱的な目にあって亡くなったところまではボニファティウス8世と似ている。
でも日本史は西洋史とは違って、この後に続きがある。
菅原道真は1月25日に大宰府へ向けて京都を出発したから、いまの日本でこの日は「左遷の日」という記念日になっている。
同時に1月25日は「初天神」の日、1年で最初の天神の縁日でもある。
左遷された菅原道真が死んだ後、「昌泰の変」に関わった藤原菅根(すがね)が病気で亡くなり、そもそもの原因をつくった藤原時平も39歳で病死する。
さらに時平と組んで、道真を失脚させたとされる源 光(みなもと の ひかる)が狩りの最中に溺死した。
極めつけは930年に、「ゴロゴロゴロ…、ドッカーン!」と清涼殿にカミナリが落ちて、朝廷の重要人物に多くの死傷者が出たことだ。(清涼殿落雷事件)
この修羅場を目撃した醍醐天皇も体調を崩して、3ヶ月後にこの世を去る。
これらの不幸の原因は何か?
人々は「これは菅原道真の恨みによるものだ。怨霊となった道真のしわざに違いない!」と考え、朝廷が北野天満宮を建てて道真を神として祀るようになった。
赤い天神(雷神)となった道真と、逃げまどう清涼殿の貴族たち。
「天神様」である菅原道真に対する信仰を天神信仰といい、彼の命日の2月25日に由来して、毎月25日を「天神の縁日」としている。
1月25日は一年の初めだから初天神の日。
8世紀に藤原種継(たねつぐ)の暗殺事件で捕まり、無実を訴えて絶食し憤死したという桓武天皇の弟、早良親王(さわらしんのう)も怨霊となって、関係した人たちを殺害したといわれている。
それで早良親王の怒りを鎮めるための儀式が何度も行われた。
ということで、日本史にも西洋史にも憤死した人物はいる。
でも日本には、そこから「怨霊信仰」という死者のリベンジのあるところが西洋とは違う。
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