1910~45年の間、日本が朝鮮半島を統治したことについて、韓国の中学生用の歴史教科書(躍動する韓国の歴史:明石書店)にはこう書いてある。
「三千里の美しい山河が地獄となって」
「貧しさは日帝がもたらした唯一の産物」
主権を奪われたこの時代、すべてが闇で民衆には苦しみと悲しみしかなかったから、そんな目にあわせた当時の日本人は憎らしい。
そんな認識が一般的な韓国社会でも、超例外的な日本人もいる。
朝鮮日報の記事(2023/04/05)
ある日本人の追悼式に…春雨の降るソウルに集まった50人余りの韓日関係者たち
朝鮮総督府の山林課職員として働いていた浅川 巧(あさかわ たくみ:1891年 – 1931年)は、朝鮮芸術に興味をもって陶磁器や家具などを集めて、仲間と建てた朝鮮民族美術館に寄贈した。
彼は朝鮮の伝統文化が大好きだ。
それで韓服を着て職場へ通っていたし、朝鮮語を話して現地の人たちと交流していて、貧しい人にお金を渡したり、若者には奨学金を与えたという。
浅川が病気で亡くなると、たくさんの朝鮮人が声を上げて泣いたというから、彼の愛されブリがわかる。
本人の希望どおり、遺体は朝鮮の地に埋葬された。
日本が戦争に負けて朝鮮統治が終わった後、墓が荒らされないように地元の人たちが守っていたという。
いま浅川の墓地はソウル市の郊外にあって、追悼碑にはこんな言葉がある。
「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きて逝った日本人、ここ韓国の土になる」
こういう日本人には、現代の韓国人も素直に称賛する。
4月4日の浅川の命日に追悼式がおこなわれて、ことしは約50人の韓国人と日本人が出席した。
それは日本人としてもハートウォーミングで、とてもありがたい。
ただ欲をいえば、朝鮮の伝統文化を愛した面だけではなくて、本職の山林課職員としての面をもっとクローズアップしてほしかった。
総督府が朝鮮半島の森林を調査をしたところ、山林がとても荒廃していたことがわかった。
その原因は、当時の朝鮮の民衆が焼畑をしていたからだとか。
それで山林課の職員だった浅川は、はげ山を豊かな森林に変えるために全身全霊で取り組む。
山を再生させるためには、朝鮮の土地に合った木を探さないといけない。
それで彼は日本からいろいろな苗木を持ちこんで植林を試して、苦労に苦労を重ねながら、はげ山を緑豊かな山へ変えていった。
そんな浅川の功績を強調すると、その緑化計画は朝鮮総督府の考えだったことに行きつく。
朝鮮の自然を愛していたといっても、彼は一職員に過ぎず、日本の力を利用しながら業務として植林をしていたのだから。
本業でそれを行いながら、朝鮮の伝統文化が好きになって収集活動をしていた。
日本が朝鮮のはげ山を緑に変えたということは、「三千里の美しい山河が地獄となって」や「貧しさは日帝がもたらした唯一の産物」と矛盾してしまう。
それは韓国メディアとして都合が悪いのは分かるが、「韓国の山を愛して、韓国の土になった日本人」の功績も正しく伝えてほしい。
日帝が間違ったのは朝鮮を併合して植民地とし、その民を差別したことです。
事実上、日帝の過ちはこれだけです。
その代わり、日帝が朝鮮を併合して「よくやったこと」は数多くあります。
併合前の朝鮮民の平均寿命はわずか24歳でした。しかし、1942年には56歳に増えました。
1940年代、朝鮮の人口は併合前よりおよそ1260万人も増えました。併合前、つまり朝鮮時代よりも民衆がより豊かに暮らし、豊かになり、医療の恩恵をよく受けたからです。
朝鮮は日帝が併合しなくても内部的矛盾によって自滅する運命だった国でした。むしろ日本が併合することで、”近代化”を成し遂げることができました(こんな話を韓国ですれば、”植民地近代化論者”として集団リンチされます)。
いまだに日本が朝鮮を収奪し、民を搾取したと宣伝する組織があり、彼らに扇動されて日本を敵対視する韓国人が数え切れないという事実が情けないだけです。
こういう意見をマレに見ますが、韓国社会で実名をあげて口にすることは不可能でしょうね。
台湾との比較して、あまりの反応や見方の違いに驚く日本人は多いです。