日本では、1338年に足利尊氏が将軍になった翌年、ヨーロッパでは「イギリス vs フランス」の「百年戦争」(1339~1453年)が始まった。
といっても、当時はフランスの貴族がイギリス国王を兼ねていたから、これは実質的にはフランス人同士の争いだ。
はじめはイギリス軍が優勢だったが、後にジャンヌダルクという「反則キャラ」が現れたこともあり、最終的にはフランスが勝利する。
百年戦争で負けたことで、イギリスがもうフランスに関わることはなくなり、国内の問題に集中するようになった。
その結果、現在のイギリスとフランスの国境が定まった。
じつは日本にも、イギリスみたいな経験があるのだよ。
古代の朝鮮半島には、日本(ヤマト王権)の拠点である「任那日本府」という場所があった。
『広開土王碑』には、倭(日本)が新羅や百済を臣民としたという記述があり、日本が朝鮮半島の南部に影響力を持っていたことが分かる。
ただ、これは日本側の見解で、韓国サイドは任那日本府を認めていない。
歴史の認識が一致しないのは「日韓あるある」で、まぁいつものことだ。
任那日本府は、562年に新羅によって滅ぼされたと考えられている。
このころ日本と百済は同盟関係にあり、百済の朝廷には日本から派遣された重臣がいた。
だから、日本が百済に一定の影響を持っていたと思われる。
当時、新羅や高句麗の圧迫を受けていた百済は日本に援軍を要請し、日本もそれに応じて一緒に戦っていた。
*そう言えば以前、韓国人の知り合いが「くだらない」の語源についてこんな誤解をしていた。
日本は先進的だった百済にあこがれていた。それで「百済に無いものは価値がない」ということから、「くだらない」という言葉ができた。
でも、この説には根拠がなく、これ自体がくだらなかったというオチ。
さて、そんな百済も660年に、唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡する。
国破れて山河あり。
国が消滅しても、まだ人はいる。
鬼室福信(きしつ ふくしん)らが生き残った人たちを集め、百済の復興運動を始めると、日本はまた頼りにされてしまう。
当時、日本には同盟の人質として、百済の王子だった扶余豊璋(ふよ ほうしょう)がいた。
鬼室福信は百済復興の旗印として王子の帰還と、援軍を依頼する。
斉明天皇と中大兄皇子はこのオファーに応じ、百済の復興を全力支援することにした。
663年のきょう10月4日、日本に旧百済の勢力が加わった軍が唐&新羅の連合軍と戦った。
結果は日本側の負け。
百年戦争と違って、この戦いは翌日に終了したが、この後の日本の展開は、負けたイギリスと似ている。
日本はもう朝鮮半島のことに関わろうとしないで、国内政治に集中する。
天武天皇の時代には、日本初の律令法とされる飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が制定されるなど、国内改革が進んで律令国家へ進化していく。
倭国が「日本」と国名を変えたのもこのころだ。
白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。
百年戦争で敗北したイギリスは、もう海の向こうのフランスのことは考えず、国内に重点を置いたことで、現代のイギリスが形成された。
白村江の戦いに負けた日本は朝鮮半島から完全に手を引き、国内改革を行ったことでいまの日本が出来上がった。
日本とイギリスは似たような歴史をたどっている。
イギリスの階級のせい? オーストラリア英語のなまり(発音)の理由
ロシアの南下を防がなければならなかったとしても、「関わらず」を貫くべきでしたね、、、結果論ですが。