きのう11月21日は、1970年に名古屋にケンタッキー・フライド・チキンの1号店がオープンした日。それで「フライドチキンの日」になっている。
アメリカの黒人にとって、フライドチキンはいわばソウルフード。
*もともとは奴隷用の食べ物だった。
フライドチキンはすごく身近な食べ物だから、浜松市で英語を教えていた友人のアメリカ人(黒人女性)は、日本ではこれがクリスマスのごちそうになっていると知り、ショックを受けた。
「一年で最も重要な日にフライドチキンなんて、特別感がまったくないじゃない! 一番大事な記念日におにぎりを食べるようなものよ!」
そんな彼女の言葉を聞いて、アメリカにおけるフライドチキンの位置づけが何となくわかった気がした。
タイには何度も行ったことがあって、冷房の効いたKFCには何度もお世話になった。
けれど、ボクがタイでハマったチキン料理は上の写真の「ガイヤーン」で、これは安くて美味で便利で、日本人の口に合う。
名前の由来は「ガイ(鶏)」と「ヤーン(焼く)」だから、まさしくタイの焼き鳥。
街を歩いていると、この屋台が目に入り、気づいたときには串を2、3本持っていたという不思議な体験を何度もした。
以前、日本の大学へ通っていたタイ人留学生と話をしていて、食べ物が話題にでてきた。
日本もタイも米を中心とする食文化で、彼女は日本のお米をおいしいと感じていたし、ラーメンやお好み焼きも好きだから、日本の食については基本的には満足していた。
でも、日本のチキンには不満があると言う。
彼女はタイの東北部イサーンの出身で、鶏といえば子どものころから、食べる直前に家族がしめるか、その日の朝に市場でしめられた肉を食べていて、それが当たり前になっていた。
でも、日本ではスーパーはもちろん食肉店でも、手に入るのは冷凍保存された鶏肉だけ。
日本の技術がどんなにスゴくても、鮮度の落ちた鶏肉はやっぱり味が落ちるし、傷むのも早い。
それでもマズくはないけれど、タイで食べていたものと比べると新鮮さがないから、どうしても「コレジャナイ」と感じてしまう。
だから、彼女が帰国して地元で鶏を食べると、「これよこれ!」と歓喜して、ガイヤーンなどのチキン料理を山のように食べるという。
インド人の夫婦の家でごちそうになったフライドチキン(だと思う)
日本に住んでいたインド人の夫婦からも、同じ不満を聞いた。というか聞かされた。
ある日、彼らから夕食に招かれて、いろいろな話をしていると「フレッシュなチキンを買いたいのだけど、どこに売っていますか?」と質問された。
2人言う“フレッシュチキン”とは、その日にしめられた鶏のこと。
友人のタイ人と同じく、彼らもインドでそんな新鮮な鶏の肉を食べていて、その味や食感に慣れてしまったから、日本のスーパーで売られている鶏にはどうしても納得できない。
そんな不満を言われても、ボクも浜松でそんな鶏肉が手に入る場所なんて知らないし、ネットで調べてみても見つからなかった。
この夫婦はヒンドゥー教徒で、宗教上の理由から牛肉を食べることができず、インドの食文化の影響から豚肉もNG。
でも、鶏なら問題ないから、インドではよくタンドリーチキンなんかを食べていた。
彼らが食べられる数少ない肉がチキンなのに、インドの“おいしい記憶”と比べると、日本の鶏肉には不満を感じてしまうらしい。
それでも、よく「鳥貴族」に行って焼鳥を食べていると話していたから、日本の鶏料理をそれなりに楽しんでいたと思う。
タイやインドでは、しめたばかりの新鮮な鶏の肉は日常的なものでも、いまの日本では入手困難な“高級品”だ。
ハッキリわからないが、そんな肉が簡単に手に入ったのは昭和中期までか?
タイやインドがさらに発展したら、きっと日本と同じようになる。
逆に、日本人がタイやインドへ行ったら、ぜひチキンを食うべし。
タイの首都バンコクにある安宿街「カオサンロード」
日本の食文化:江戸は犬肉を、明治はカエル入りカレーを食べていた
タイかぁなつかしい。日本は経済的に上位でもあちらのほうがおいしいよね。
タイのチキン料理は美味しかったですね。
知り合いのベトナム系アメリカ人は、アメリカでは冷凍保存のチキンを食べて、ベトナムではその日にしめたチキンを食べるそうです。
日本には美味しいものがたくさんありますし、それは旅行で食べるしかないですね。