日本国の大ピンチといえば、13世紀、モンゴル軍が攻めてきた「元寇」がある。
1274年に文永の役、1281年には弘安の役と2度にわたって襲来を受けたが、鎌倉武士の奮闘や神風によって撃退し、日本は守られた。
しかし、現在のウクライナのルーツとなる「キエフ大公国」はそううまくいかず、地上から姿を消してしまった。
ただ、モンゴル軍は、はじめからこの国を滅ぼすつもりではなかった。
バトーは最初、タチコマを送り‥、いや、モンゴル軍の将軍バトゥは使者を送り、キエフ大公にモンゴルへの服従を求めた。が、キエフ大公はその使者を処刑してしまう。
この点は北条時宗とソックリ。
文永の役の翌年(1275年)、元の使節・杜 世忠(と せいちゅう)がやってきて、日本に降伏をすすめた。
すると、北条時宗は「これが答えだ」と杜 世忠らを処刑した。
これで「弘安の役」がはじまったが、またも日本が元軍を返り討ちにする。
ちなみに、いまの神奈川県で処刑された杜 世忠は、「家を出る際、私の妻子は寒さをしのぐ衣服を贈ってくれた」という辞世の句を詠んでいる。
ごめんよ、父ちゃんを帰せなくて。
一方、バトゥ率いるモンゴル軍と戦ったキエフ大公国の運命は残酷だ。
1240年の11月に首都キーウが包囲された後、モンゴル軍の激しい攻撃を受け続け、きょう12月6日に力尽きた。
キーウが陥落し、キエフ大公国は滅亡する。
街は徹底的に破壊され、住民は虐殺された。
キーフにいた5万人の住民のうち、生き残ることができたのはわずか2千人だけだったという。
キエフ大公はチンギス・ハーンの像にひれ伏すことを要求されたが、それを拒否したため、怒ったバトゥに処刑された。
歴史の「タラレバ定食」にはキリがないのだけど、もしも日本が元寇で負けていたら、天皇がこんな目にあっていたかもしれない。
モンゴル軍に敗北した高麗の場合、国王はキエフ大公とは違い、モンゴルへの忠誠を誓う。
しかし、その証(あかし)として、高麗王は必ず名前のはじめに「忠」の字を付けることを命じられ、忠宣王、忠烈王、忠穆王が誕生した。
詳しいことはこの記事を。
鎌倉の武士たちは本当によくがんばって戦い、日本を守ってくれた。
1240年のバトゥによるキーウ包囲
昼も夜も攻撃を受け続け、多くの住民が死んで血が水のように流れたという。
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