いまの東北地方のあたりは、昔は「陸奥」と言われていた。
読み方は「みちのく」も「むつ」も、どっちも正解だから好きなほうで言えばヨシ。
古代の日本で、都の奈良や京都から見て、遠く奥にある国という意味で「みちのおく」と呼ばれ、それがやがて「みちのく」となった。
「むつ」はその後にできた読み方らしい。(陸奥国)
きょう12月20日は、762年に、いまの宮城県で多賀城碑(たがじょうひ)が立てられた日。
奈良時代、この地域には独立勢力が存在していたから、平城京にいた天皇が藤原朝狩(ふじわら の あさかり)に「討ってヨシ」と遠征を命じる。
そして、朝狩は軍を率いて陸奥までやってきて、みごとに平定し、奈良朝の一部に組み込むことに成功した。
その後、朝狩は多賀城碑を建て、「蝦夷平定」という自分の功績を後世に伝えることにした。
多賀城碑に刻まれた文
上にでっかく「西」の文字があるのは、はるか西にいる天皇へアピールするため。
この碑も西に向かって建てられた。
時代と場所はとんでもなく変わって、12月20日は1830年にベルギーの独立が認められた日でもある。
ベルギーはネーデルラント連合王国(オランダ)の一部だったのだけど、価値観の違いから、「もうムリ。一緒にはいられない」と1830年8月に独立戦争をはじめ、10月にベルギー建国を宣言した。
そして12月20日、イギリス・フランスなどがベルギーの“独立”を認めた。
翌1831年7月21日に国王レオポルド1世が即位したことから、現在ではこの日がベルギーの独立記念日になっている。
しかし、この時点ではまだネーデルラント連合王国は、ベルギーの独立を認めていなかった。
ヨーロッパ諸国に圧力をかけられ、1839年にしぶしぶベルギーを国家として承認したことで、ベルギーの完全な独立が実現した。
夫婦が離婚するのも国家が独立するのも、よくある原因は価値観の違いだ。
それが合っていたら、きっと別れることはなかった。
ベルギーがオランダから離れた理由は宗教の違いにあった。
当時、ベルギーにはカトリック教徒が多く、プロテスタントが主流のオランダと仲よくやっていくことがむずかしく、人々のストレスはたまりまくり。
そして、1830年にそれが限界を超えて爆発し、ベルギーは戦争を起こしてオランダにお別れを告げた。
くわしいことは「ベルギー独立革命」でチェック。
ベルギー独立革命
ベルギーは小さな国で、九州と同じぐらいの広さしかない。
それでも、宗教の違いは決定的で、独立戦争を起こす十分な動機になる。
そもそも、オランダがスペインから独立した理由も同じだった。
ネーデルラントにはプロテスタントが広まっていて、カトリックに改宗をせまるスペイン王フェリペ2世の圧政にガマンできなくなり、1568年に独立戦争(八十年戦争)を起こす。
そして、1648年のウェストファリア条約によって、ヨーロッパ各国にオランダの独立が承認された。
一方、日本の歴史では、そんなことは一度も起こらなかった。
古代の中央政府がいまの九州や関東、東北地方を平定し、日本国に組み入れてから、その地域で
独立を求める戦いがぼっ発することはなかった。
ヨーロッパ人と比べると、日本人は昔から宗教への関心が薄い。
だから、信仰の違いが譲れない価値観の違いとなって、戦争をしてまで分離・独立を目指ざす動きは出てこなかった。
スペイン→オランダ→ベルギーみたいに、まず東北が中央政府から独立して、そのあと価値観の違いから、東北の中の一部が独立するみたいな展開は日本では考えられない。
あったとしたら、『翔んで埼玉』の世界だ。
宗教をめぐって、激しい戦いが何度も起きたヨーロッパの歴史とはホントに対照的。
もちろん、例外的な出来事はある。
15世紀に加賀(石川県)で一向宗の信者たちが一揆を起こし、守護大名の富樫 政親(まさちか)を倒して「百姓の持ちたる国」と呼ばれる、共和制の国みたいなものをつくったことはあった。
でも、これは日本史のイレギュラーで、オランダやベルギーの独立とはまったく違う。
昨日も同じようなことを書いたのだけど、日本はヨーロッパと違って、信仰の違いが侵攻の理由にならなかった点は平和で良かった。
日本にはない、キリスト教やユダヤ教の「神との契約」という考え方
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