1853年、アメリカの軍人ペリーが艦隊を率いて日本へやってきた。
彼は開国を求める大統領の国書を江戸幕府に渡し、「I’ll be back(また戻ってくる)」と言って(想像)、一度アメリカへ帰国する。
翌1854年、ペリーが再び来日すると、日本は日米和親条約を結んで、数百年ぶりに「鎖国」を解除した。
このころ、お隣の朝鮮(韓国)も絶賛鎖国中だった。
江戸時代の日本はオランダとの交流はあったが、朝鮮はヨーロッパの国との交流が一切なく、「鎖国」の度合いは日本よりも強かった。
そんな隣国を開国させたのは誰か?
江華島事件で朝鮮軍と戦う日本軍の兵士
1875年9月、現在のソウルに近い江華島の周辺で、日本の軍艦「雲揚(うんよう)号」が朝鮮軍の攻撃をうけ、日本側が応戦し武力衝突が発生。
この「江華島事件」をきっかけに、日本と朝鮮は話し合いのテーブルにつき、翌 1876年のきょう2月27日、日朝修好条規が調印された。
これで朝鮮は釜山などの港を開き、日本との自由貿易を開始し、日本人が開港地に住むことや日本通貨の使用を認めた。
この動きを見て、西洋諸国も「じゃあ、オレもオレも!」と言い出し、朝鮮はアメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスとも同じような内容の条約を結ぶようになった。
日朝修好条規によって朝鮮が開国したから、韓国にとってのペリーは日本だったことになる。
*1882年に朝米修好条約を締結したことで、朝鮮が開国したとする説もある。
ところで、「条約」ではなく、「条規」という表記に違和感を感じないだろうか?
このとき朝鮮は清(中国)の「属国」であることを自称していたから、宗主国である清をさしおいて、日本と交渉することに負担を感じていた。
「条約」とすると対等な二国間のやり取りになってしまうので、朝鮮は清に遠慮し、ワンランク下の「条規」という言葉を使ったと思われる。
日朝修好条規で、「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」と明記されているのは、日本が朝鮮に自主独立の自覚をうながし、朝鮮が中国の影響下から抜け出すことをねらってのはず。
朝鮮としては、開国なんてしたくなかったけど、日本に強引に開けられた状態。
朝鮮が開国した少し後、イギリスの女性探検家イザベラ・バードが朝鮮を訪れる。
19世紀後半の国際社会では、弱い国は強国の植民地になるという帝国主義が常識としてあった。
バードは、長い長い鎖国の眠りからたたき起こされ、「弱肉強食」のハードな時代に対応しないといけなくなった朝鮮を見て、こんな不幸フラグを立てる。
か弱い属国は、何世紀にもわたる眠りからいきなり揺さぶり起こされ、おびえ、戸惑っている。そして彼らは、列強各国が自分たちの上に覆いかぶさってきたのを知った
「イザベラ・バード 朝鮮紀行を読むⅠ (山野井 一美)」
この後、朝鮮は列強各国の重みに耐えきれず、滅亡してしまう。
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コメント
コメント一覧 (2件)
当時、朝鮮は清(中国)の属国であることを自然現象のように当然のことと認識していました。
条規の内容に「朝鮮は自主の国」があるにもかかわらず、「中国の属国」がすなわち「自主の国」だと思いました。「自主の国」という意味もわからないほど、朝鮮は徹底的に属国でした。
安全保障では、朝鮮は中国との関係を良くしてれば良かったので、冊封関係を結ぶことは正しい選択でした。
ただ、それで開国したのが遅れたことは、朝鮮にとって大きなマイナスでした。