3月29日はアメリカにとって、汚点や闇歴史となった日といえる。
ベトナム戦争中の1971年のこの日、米軍が子どもや女性を含むおよそ500人の民間人を殺害したソンミ村虐殺事件(1968年)の軍事裁判で、ウィリアム・カリー中尉に終身刑が言い渡された。
これは、敵である南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の駆逐が目的だったという。しかし、それは村民を殺害する理由にならない。
それに、この裁判も米軍の「やってる感」を出しただけで、本当に責任を取らせるつもりはなかった模様。
その後、カリーは懲役10年に減刑され、さらにその3年後には仮釈放になり、終身刑は無効化されたのだから。
村民の虐殺や身内に対する甘すぎる対応に、アメリカは世界中から非難を受けた。
しかし、カリーは罪悪感に苦しんでいたようだ。
シャバに出た後、ずっと沈黙を守っていた彼は、40年以上たった2009年に事件について謝罪し、生存者の一人に受け入れられた。
銃殺される直前のソンミ村の人たち
ソンミ村で無抵抗の人たちが殺害された事件は、アメリカや日本などで反戦運動が盛り上がるきっかけとなった。
1960年代に、米軍が支援する南ベトナムと北ベトナムとの間で戦争がはじまり、北ベトナムの粘り強い抵抗にあって米軍はなかなか勝てず、戦いは長期化、泥沼化していく。
その間に、米軍の被害はどんどん大きくなっていき、(それにイラ立ったせいもあるのだろうが)ソンミ村の虐殺などが起きたりして、アメリカは国の内外で支持を失っていく。
そしてついに、アメリカは戦闘継続が不可能になる。
1973年の1月、パリで北ベトナム側と南ベトナム側による話し合いが行われ、北ベトナムは捕虜を解放し、米軍は南ベトナムから撤退することが決められた。(パリ和平協定)
ニクソン大統領はすぐにベトナム戦争の終わりを宣言する。
こうして米軍はベトナムから去っていき、カリー中尉に終身刑が言い渡された2年後の3月29日、最後の米兵が南ベトナムから撤退した。
ベトナム戦争が終わったのは、正式には1975年4月30日に南ベトナムが崩壊した日とされている。
しかし、実質的にはパリ協定が結ばれ、米軍が撤退した1973年に終わっている。
米軍がいなくなり、“ザコ化”した南ベトナムが北ベトナムに勝てるはずないのだから。
パリ協定以降の南ベトナムは、「おまえはもう死んでいる」という状態でしかなかった。
米軍で5万人以上、南ベトナム軍で13万人以上、北ベトナム側で97万人以上、そして200万人以上の民間人が犠牲になった戦いはこうして終了した。
アメリカにとってベトナム戦争は完全な失敗で、多くの汚点を残す結果となる。
南ベトナムの首都サイゴン(現・ホーチミン市)のアメリカ大使館前で、抗議の焼身自殺をするティック・クアン・ドック僧。
「ハノイ・タクシー」と呼ばれた輸送機で、北ベトナムから母国に帰る米軍の捕虜
ベトナム戦争における米軍の暴虐についての話もさることながら。
その米国では、戦前の日本(大日本帝国)が、犠牲者3,000万人(ナチスによるホロコーストの5倍の規模)に及ぶ大量虐殺行為を行ったという出版物が発刊されたそうですよ。
最終更新:3/30(土) 19:01 ニューズウィーク日本版より:
>2024年3月19日、日本で大変な物議を醸しそうな書籍がアメリカで出版された。その書名も刺激的で、『日本のホロコースト:第二次世界大戦中の大日本帝国による大量殺戮と強姦の歴史』というものだ。
少し前に日韓友好SNSグループで、韓国人が日本に対して(でたらめな)文化的優位性を示す発言をすると、それを読んだ韓国人メンバーからは「いいね!」が大量につき、日本人メンバーはほとんどが「無視・スルー」を決め込む、という記事がありました。おそらくそれは、「不同意ではあるけれども、相手に対し友好的であるという場の雰囲気を壊さないことを優先する」という日本人に特有の「優しさ」のつもりなのでしょうね。
しかしながら、
同意できない発言に対して無言でいることは、その発言を「認めた」ものとみなされるのが世界標準の考え方であることを、多くの日本人はもっと認識するべきだと思います。不同意であることに対しては、きちんと言葉に発して相手に反論することの方がエチケットです。