【三国干渉】独仏がロシアと手を組み、日本に迫った理由

 

近代国家となった明治日本が迎えた最初のでっかい試練、それが1894年にはじまった日清戦争
この絶対に負けられない戦いに勝利したと聞いて、福沢諭吉は涙を流して喜んだと自伝(福翁自伝)に書いている。

「日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有いとも云いようがない。命あればこそコンな事を見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だアヽ見せて遣りたいと、毎度私は泣きました」

しかし、歓喜雀躍している日本に、ロシアが頭から氷水をぶっかける。
1895年のきょう4月23日、フランスとドイツと一緒に、下関条約で日本が手に入れた遼東半島を清に返還しろと要求してきたのだ。
当時の日本にとってこの三国は、ラスボスが手を組んだようなチート同盟だったから、「だが断る!」なんて言えるはずもなく、三国干渉を受け入れるしかなかった。
しかし、官民一致の勝利、多くの朋友の犠牲によって得られた果実をロシアに奪われ、日本は「このうらみ はらさでおくべきか!」とリベンジに燃えた。
それがいわゆる臥薪嘗胆だ。

 

では、この三カ国の立場や考え方を確認しよう。
海外の視点から見ていきたいので、ここでは英語版ウィキペディア「Triple Intervention 」(三国干渉)を参考にすることにした。

ロシア:ロシアは以前から極東を重視していて、南方に進出し、年間を通じて使うことのできる不凍港がほしいと考えていた。
日清戦争については「いやいや、日本は負けるっしょ」とたかをくくっていたら、予想がひっくり返ったからロシアはあせる。
満州(中国東北部)への日本の影響力が増大し、特に日本が旅順港を手に入れる事態を恐れたロシアは、フランスとドイツを誘って「日本のジャマをしようぜ(戦果を失わせよう)」と持ちかけた。
これが成功し、ロシアは旅順港を含む遼東半島の一部を租借地としてゲット。
三国干渉で、もっとも多くの利益を得たのがロシアだ。

フランス:フランスは満州に領土的野心はなく、関心は中国南部にあった。
それに、フランスは日本陸軍の訓練のために軍事顧問を派遣したり、造船所で多くの日本船を建造したりして、日本とは友好的な関係を築いていた。
しかし、フランスは露仏同盟を結んでいたため、ロシアを支持することを決める。
それに、当時はドイツが強大になりつつあったから、ロシアを怒らせて外交的に孤立することを望まなかったという事情もある。

ドイツ:ドイツがロシア側に立った理由は2つある。
まず、ロシアが東方に関心を向けてくれれば、自国の安全保障にとって都合がよかった。
それに、中国におけるドイツの利益を確保するためには、ロシアと組んだほうが得策だ。。

こうしてロシア主導で三国干渉がおこなわれた後、ドイツは膠州湾を、フランスは広州湾一帯を租借地として手に入れた。
アメリカとイギリスは中立を宣言し、この動きには加わらず。
日本は三国干渉によって外交戦略の重要性を痛感し、再び西洋列強による「対日同盟」が結ばれることのないように努力し、1902年の日英同盟締結につながった。
そして1904年に日露戦争がぼっ発すると、日本はロシアに勝利してミッションコンプリート、あの時のリベンジを達成した。

 

 

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4 件のコメント

  • > 愉快とも難有いとも云いようがない。
    ⇒ 「有難いとも」ですよね。(何が変なのか、思いつくのに少々時間がかかりました。)

    「清国」って、もともと満州で建国されたモンゴル系の国なのですね。それが漢民族を征服しながら中国北部へ広がり、ついには南部も含めて中国全土を明に代わって支配するに至った。「清は中国の王朝」と言われても、この辺がどうもしっくり来ません。結局、多民族統一国家であるからそういう感じを受けるのでしょうけど。
    中国南部・北部、満州、チベット、西域、内モンゴル、そして台湾、なんだか「中華人民共和国」という国名と経済力の下に、多くの地域を無理やり支配・統一しようとしているように見えます。そういう強権的体制って、この先いつまで続くかなぁ。オスマン帝国、大英帝国、ソビエト連邦、いずれも分裂して終焉を迎えました。
    文化、宗教、政治支配体制、経済システムなど、広大な地域を一つに統合する骨組みにはいろいろな種類があります。でも現代のどの大国を見ても、日本みたいに島国で地域限定かつ民族・文化の同一性が高い国に比べると、大きな国家の運営はとても大変なようです。

  • ご指摘を見て、「たしかに」と思って原文を確認しましたが、たしかに「難有い」で「ありがたい」になっています。
    福沢諭吉が間違えたのか、それとも、当時はこんな言葉だったかもしれません。
    日清戦争につてい漢民族の間では、「満州族と日本の争い」という冷めた見方があったと聞いたことがあります。

  • 福沢諭吉の「難有い」についてNETで調べてみたら、面白いことが分かりました。
    まず、「ありがたし(意味:めったにない)」という語は、和語として古代の日本からありました(例:枕草子「ありがたきもの、舅に褒めらるる婿」)。なお現代語と同様に、この語に感謝の意味が付け加わったのは、江戸時代に入ってからとのことです。
    その一方で、漢文(中国語)には「難有」という語が元々あって、これを日本では「アルコトカタシ」と読み下した。つまり中国語の否定表現は、英語みたいに、否定語(難、not)+動詞(有、exist)という語順なのですね。
    明治時代に始まった言文一致の潮流の中で、上記の2つが結びついた結果、「難有い」と書いて「アリガタイ」と当時は読んでいたようです。

  • なるほど! 
    「難有」という中国語に日本語の読みを当てたのですね。
    それは明治時代の空気が感じられて、たしかに興味深いです。

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