このところ、日本に住むイスラム教徒は右肩上がりで増えていて、各地でモスク(礼拝所)もつくられている。長崎では今月、県内で初となるモスクが建てられた。
そんなことを前回書いたのだよ。
今回はそのスピンオフとして、長崎のユニークな文化を紹介させてほしい。
今回、長崎市でモスクができた場所から、歩いていける距離に中華街があって、ここでは祭りの時、神となった関羽へのお供え物として、日本人が引いてしまうほどの数のブタの頭(もちろん本物)が並べられる。
イスラム教徒にとって、ブタはとんでもないタブー。
マレーシアでは、グリコの「ポッキー」の商品名が「ポーク」を連想させるという理由で、「ロッキー」になったこともある。
でも、長崎なら、イスラム教徒もチャイナタウンの住民も共存できると思われる。
ここには、多様性を受け入れる独特の空気があり、「わからん」文化もあるのだから。
江戸時代、絶賛「鎖国」中だった日本で、長崎だけは例外とされ、その雰囲気はほかの都市と違っていた。
日本はオランダと中国に貿易を許可していて、オランダ人は出島に、中国人は市内につくられた唐人屋敷に住んでいた。
中国人はキリスト教徒じゃなかったから、幕府の警戒心はゆるく、彼らは長崎市内に住み、わりと自由に行動することも認められた。
国際都市だった長崎にはユニークな正月があって、西暦を使っていたオランダ人は新年になると、日本の役人を招待してご馳走を振る舞い、「ニューイヤーパーティー」を開催していた。
日本人はこれを「オランダ正月」、または、現代の人権感覚では差別的な表現なんだが、「紅毛正月」と呼んだ。
蘭学者もこの風習を知り、江戸で「オランダ正月」を開くこともあったという。
クリスマスやバレンタインデーなど異文化のイベントを自分のものにしてしまう、日本人の習性は昔からあったらしい。
中央のやや右にある扇形の場所が出島で、右下にある壁で囲まれたところが唐人屋敷(たぶん)。
出島では、当然オランダ人も異なる文化や価値観と出会うこととなる。
幕末に、オランダ商館が正月のパーティーに幕府の役人を招待した際、こんなコトがあった。
日本人たちは出された食事を腹いっぱい食べると、紙を取り出して、皿に残ったものをすべてそれに包んで持ち帰ってしまう。
日本人の一行が去った後、テーブルの上の皿には何も無かったと、オランダの軍人だったカッテンディーケがあきれたように書いている。
現代の日本人には無いハゲタカDNAだ。
カッテンディーケ
彼の指導を受けた勝海舟が神戸に「海軍操練所」をつくり、坂本龍馬がそこで学んだ。
江戸時代の長崎には、そんな異質な空間が存在していた。
現在では、そんな独特な歴史によって育まれた国際色を“武器”にして、長崎市は「わからん」の文化をアピールしている。
ちょっと何言っていのかわからない、という人に説明すると、これは「和・華(中国)・蘭(オランダ)」の要素を合わせ持つ、とっても長崎的な文化を指す。
たとえば、長崎市の公式観光サイトにある「和華蘭文化にふれる」では、こんな場所が紹介されている。
孔子廟、オランダ坂、シーボルト宅跡、亀山社中記念館、眼鏡橋、諏訪神社…
*亀山社中は、坂本龍馬が結成した日本初のカンパニーのこと。
長崎にある「和華蘭」文化の「華」の部分には、チャイナタウンで見られる中国正月のお祝いがある。洋の部分としては、「長崎カステラ」を知らない日本人なんて考えられない。
「わからん(和華蘭)」の要素がギュッと詰まったのが、毎年 10月に長崎の氏神である「諏訪神社」でおこなわれる秋祭りの「長崎くんち」だ。
旧暦の9月9日はめでたい「重陽」の日で、9日(くにち)を「くんち」と読んだことが名前の由来といわれる。
「長崎くんち」は日本のお祭りを主体として、中国の「龍踊り」やオランダ人をモチーフにした踊り「阿蘭陀万才」を見ることができる。
長崎は国際性と多様性の洪水や〜。
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