きょう5月23日、ヨーロッパでは過去にこんな出来事があった。
1430年 – 英仏の百年戦争で、ジャンヌ・ダルクが敵軍に捕らえられる。
1498年 – 修道士のサヴォナローラがローマ教皇の命によって処刑された。
1568年 – ヘイリヘルレーの戦いで、オランダ反乱軍がスペイン軍に勝利する。
1618年 – 第二次プラハ窓外投擲事件が起こり、これが三十年戦争の発端となった。
これらにはキリスト教という共通点がある。
それぞれの出来事を細かく見ていくと、ヨーロッパの独善性が浮かび上がってくる。
これは、宗教的に寛容だった日本にはなかったものだ。
・イギリスとの百年戦争で突然現れ、フランスを救って「奇跡の乙女」と呼ばれたジャンヌ・ダルク。
彼女は敵に捕らえられた後、女性でありながら男性の格好をしたことがキリスト教(カトリック)の教えに反するという理由で処刑された。
・1498年にサヴォナローラはローマ教会(カトリック)の腐敗を批判し、後に教皇から破門され、裁判で「異端」と見なされて処刑された。
彼の行動は宗教改革の先駆けとなったと考えられている。
日本では、カトリックのように「唯一絶対」の宗教はなかった。
だから、ジャンヌ・ダルクやサヴォナローラのように公的に「異端者」と判断され、処刑された人はいない(ボクの知る限りでは)。
古代に用明天皇が「仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ」と、仏教と神道の両方を尊重する態度を示し、2つの教えが共存してきた。
欧州と日本の“初”:コンスタンティヌス1世と用明天皇のしたこと
ヨーロッパでは、カトリック教会と違う考え方を持っている人間がいれば、改宗させたり処刑したりして徹底的に排除したが、多神教の日本では昔から宗教に対して寛容だった。
1517年にルターがローマ教会に抗議し、本格的な宗教改革がスタートする。
これによって、プロテスタント(新教徒)というキリスト教のグループが誕生し、以後、ヨーロッパでは各国でカトリック(旧教徒)と血みどろの戦いがぼっ発した。
・スペイン国王フェリペ2世は、オランダにいたプロテスタントに対し、カトリックへ改宗するよう圧迫すると、1568年にプロテスタントたちがキレて反乱を起こす。八十年戦争がはじまり、1581年にオランダは独立を宣言し、1648年のウェストファリア(ヴェストファーレン)条約によって国際的に独立が承認された。
・1618年、オーストリアのボヘミアで、プロテスタントたちが神聖ローマ帝国に対して反乱(プラハ窓外放出事件)を起こし、三十年戦争がぼっ発。
1648年まで続いたこの争いはおもに神聖ローマ帝国(ドイツ)を中心に行われ、ヨーロッパの歴史上、最も破壊的な戦争の一つとなった。
戦闘、飢餓、病気などによって、兵士と民間人を合わせて 450万〜800万人が死亡したとされる。
1648年にウェストファリア条約が結ばれ、「最後で最大の宗教戦争」といわれる三十年戦争は終結した。
ヨーロッパでは 16世紀に宗教改革がはじまり、プロテスタントが誕生した後も「宗教的な独善性」は変わらなかった。
皇帝や王などが国民に自分の信じる宗教を押し付け、強制改宗を迫るなどした結果、激しい反発を招き、カトリック教徒とプロテスタントの間で何度も戦争が行われ、独立国まで生まれた。
日本では、統治者が領民に対し、自分と同じ宗教に改宗するよう迫ったことで欧州レベルの戦争がはじまったり、新しい国が誕生したりしたことはなかった。
戦国時代の末期から江戸初期に、キリシタンが弾圧されたのはおもに治安上の理由で、カトリック教会の異端認定とは性質がまったく違う。当時の日本には、仏教だけでも複数の宗派があり、批判しただけで処刑されるような「唯一正しい教え」なんてものは存在しなかった。
ちょうど昨日、織田信長と日本最大の宗教勢力だった石山本願寺との戦いについて書いた。
信長は、本願寺や延暦寺が自分に敵対したから戦っただけで、誰がどんな教えを信じるかは問題視しなかった。
彼の目標は天下統一で、自分の宗教を他人に押し付けることではない。覇道を邪魔する者は残酷に排除したが、個人の内心の自由は尊重した(きっと関心がなかった)。
実際、信長は本願寺や延暦寺が“武装解除”すれば不問にし、仏教を根絶やしにすることはなかった。
フェリペ2世とは価値観や考え方が根本的に違う。
日本人は宗教に対しては寛容だったから、ヨーロッパのような宗教戦争が起こることなかった。800万人が死ぬような恐ろしい世界とは無縁だった。
この歴史の違いは、現代の日本人とヨーロッパ人の宗教に対する認識の違いにも影響を与えている。
神社も寺も尊重する「神仏習合」は日本人にとっては当然の常識だが、「寛容」と受け止めるヨーロッパ人は多い。
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