天下統一の地ならし 織田信長 VS 石山本願寺・延暦寺

 

1580年のきょう5月22日、本願寺(浄土真宗)の最高指導者である顕如(けんにょ)が石山本願寺から出ていった。
石山本願寺は現在の大阪城の地にあったとされていて、顕如がいたころから武装を固めて要塞化していた。
当時の本願寺は日本最大・最強の宗教勢力で、言ってみれば日本仏教界のラスボス。
織田信長が10年以上戦っても撃滅できず、最後は天皇の仲裁で講和に持ち込んだのだから、本願寺の力はそこらの戦国大名を上回っていた。

石山本願寺があった場所は小高い丘で、

・京都に近く、朝廷の動きを見張ることができた。
・水運の拠点として都合が良く、西国大名と戦う際の基地となった。
・近くに堺があり、経済的なメリットを期待できた。

といったおいしさが詰まっていて、天下統一を目指す信長としてはぜひ手に入れたい場所だった。
それで信長が「決めた! ここはオレの拠点にするわ。顕如、おまえはどけ」とジャイアンみたいに迫ると、顕如は「だが断る!」と拒否したという。(セリフは想像)。
そして、「信長が本願寺を破却する(取り潰す)と言ってきた」と本願寺の信徒たちに伝え、1570年に戦いがはじまった。

この石山合戦とほぼ同時に、石山本願寺の指示を受け、長島で本願寺(一向宗)の信徒たちが蜂起し、一向一揆が発生。
この一揆で信長の弟・信興を自害に追い込むなどして、本願寺勢力は信長に対し、本格的に敵対するようになる。
織田軍は一説には2万人を殺害し、この一向一揆を鎮圧した。そして、1580年に石山本願寺から顕如を追い出し、石山合戦が終わった。
ちなみに、息子の教如は石山本願寺に立てこもり、徹底抗戦を主張したことで、父・顕如との関係が悪化し、現在の東本願寺と西本願寺の分裂につながった。

 

石山合戦がはじまった次の年、1571年に信長は比叡山延暦寺の焼き討ちを行なっている。
『信長公記』によると、織田軍は僧や住民、子どもなど無差別に殺害し、建物は燃やされて灰になった。
この焼き討ちで、数千人が犠牲になったとされている。

当時の比叡山延暦寺は、現在の延暦寺とはまったく違う。
延暦寺には多くの僧兵がいて、僧侶たちは仏の威光を利用し、朝廷に対して好き勝手な要求をしていた。
平安時代、絶大な権力者だった白河法皇でさえも、自分ではどうしようもできないものとして、賀茂河の水と双六の賽、そして山法師(延暦寺の僧兵)を挙げている。
延暦寺は強大な軍事力を持っていて、宗教的な権威もあったから、手の出しようのない集団となっていたのだ。
そんな延暦寺が信長に敵対した結果、破滅的なダメージを負ってしまった。

織田軍が石山本願寺を実質的な降伏に追い込んだり、延暦寺を燃やしたりしたことで、日本の宗教勢力は政治的野心や軍事力を捨て、現在のような平和的な団体へと変わっていく。
仏教僧が本来の姿に戻ったのだ。とはいえ、信長に感謝することはないだろうけど。
織田信長が宗教勢力と戦い、屈服させたことで、豊臣秀吉は天下統一をスムーズに進めることができた。
結果的に信長は、彼にしかできない「地ならし」をしたことになる。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。