【430年の分裂】本願寺の歴史・東と西に分かれた理由

 

ちょっと前に、こんな記事を書いたのだよ。

450年ぶりに、カトリック教会と英国国教会が和解する

16世紀、イングランド国王のヘンリー8世は妻と離婚したいと考えていた。しかし、彼はカトリック教徒でローマ教皇から「無理」と言われ、それができなかった。
それで王はイングランド国教会を設立し、1534年にカトリック教会から離脱する。
そして時空を超えて、1982年にローマ教皇がイギリスを訪問し、イングランド国教会の首長と会談を行ない、450年ぶりにカトリック教会とイングランド国教会が和解した。
この出来事を日本で例えるなら、東西の本願寺と似ている。

 

東と西の本願寺はどっちも浄土真宗のお寺で、鎌倉時代の僧・親鸞を宗祖としていることでは完全一致している。
親鸞の死後、覚如が本願寺を建てたが、浄土真宗のほかの寺のほうに勢いがあり、本願寺は次第に衰退していく。
しかし、室町時代に蓮如が現れると状況は一変。
彼は各地で布教活動を積極的に行い、信者を増やしていき、本願寺が日本最大の教団となる基礎を築く。その功績から、彼は「本願寺中興の祖」と呼ばれるようになった。

そんな本願寺の「天下」を終わらせたのが織田信長だ。
信長は敵対する本願寺に怒り、軍を派遣してすぐに駆逐した、とはならず、約10年戦っても決着はつかず、最後は天皇の仲裁で講和に持ち込み、1580年に石山合戦を終わらせた。
これは、実質的には本願寺が降伏したようなもの。しかし、織田信長をここまで苦戦させたという事実から、本願寺の勢力がかなり強大だったことがわかる。

天下統一の地ならし 織田信長 VS 石山本願寺・延暦寺

 

本願寺のトップだった顕如(けんにょ)は約束どおり、石山本願寺から出ていったが、長男の教如(きょうにょ)は信長との徹底抗戦を主張したため、顕如から縁を切られる。
その顕如が亡くなると、教如が本願寺を継承した。
すると彼は、石山合戦で自分と同じく抗戦を唱えた人たちを側近にし、顕如と同じく和睦を主張した人たちを冷遇したため、教団内が2つに分かれ、対立するようになった。

その後、教如は豊臣秀吉の怒りを買い、本願寺宗主を退くと、次に准如(じゅんにょ)がその座を受け継ぐこととなる。
しかし、教如の野心の炎は消えない。
関ヶ原の戦いが終わると、彼は徳川家康に近づいて支持を得ると、1602年に京都にあった本願寺のすぐ東に寺を建てて、そこを自身の本拠地とした。
これによって、現在に続く東西本願寺の分裂がはじまった。
本願寺は信長を苦戦させたかなり手強い集団だったから、家康としても、勢力を2つに分散させたほうが都合が良かったと思われる。
現在では、本願寺派(西本願寺)も大谷派(東本願寺)も「本願寺」を正式名称としている。(本願寺の歴史

分裂から430年の間に、相互参拝などの交流が生まれ、2023年に東西本願寺のトップが80年ぶりに会談を行ない、互いの違いを認め合った。
その内容は読売新聞の「西本願寺門主・東本願寺門首 対談特集」にある。

ということで、日本で起きた出来事の中で、イングランド国教会とカトリック教会が分裂し、450年ぶりに和解した出来事に最も近いのは、本願寺の分裂と“和解”だと思う。
ヘンリー8世も教如も自分の気持ちを抑えることができなかった。

 

 

 

ヨーロッパ 「目次」

キリスト教を知りましょう!「目次」

宗教戦争と神仏習合 日本人とヨーロッパ人の歴史・信仰の違い

【ヨーロッパ文化】死体を教会の壁に埋めるキリスト教の発想

日本にはない、キリスト教やユダヤ教の「神との契約」という考え方

【政教分離の歴史】ヨーロッパやイスラム世界とは違う日本

 

コメントを残す

ABOUTこの記事をかいた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。