『ゴジラ』が隣国に上陸して、お騒がせしているらしい。
朝鮮日報(2024/06/20)
「反戦映画」か「戦犯美化」か…元特攻隊員がゴジラを退治、韓国で賛否分かれる
この記事は映画『ゴジラ-1.0』に関するもので、内容はざっとこんな感じ。
*以下、思いっきりネタバレするのでご注意を。
この映画は戦後の復興がはじまった日本を舞台に、元特攻隊員がゴジラを倒すというストーリー。アカデミー賞で視覚効果賞を受賞し、Netflixの映画部門で世界第3位になるなど、海外でも「ゴジラシリーズの最高作の一つ」と高く評価されている。
しかし、韓国での反応は違う。
映画の最後に、元特攻隊員が爆弾を抱えた飛行機を操縦し、ゴジラに突っ込んで倒すシーンがあることから、韓国でこの映画について「戦争や特攻隊を美化している」、「いや、これは戦争の恐怖や生存者をテーマにした反戦映画だ」といった論争が巻き起こった。
ほかにも、ゴジラが口から放射熱線を出して都市の建物や人を攻撃するシーンが原子投下を連想させ、「日本は被害者のふりをしている」との批判もある。
朝鮮日報の記者はこうした議論にふれた上で、日韓の立場や価値観の違いをこう指摘した。
日本が、戦後を舞台とするあらゆる映画を「反省文」を書くかのように作ることはできないのと同じく、韓国の観客が、映画を歴史と結び付けて考えながら見てしまうこともまた、どうにもならない。
日本のネット民の反応を見てみても、確かに韓国の“どうにもならない”立場の違いが表れている。
・賛否とかどうでもいい。
・被害者ぶってる?
・米軍と自衛隊活躍するシンゴジラも冷静に見れなさそう
・フィクションとノンフィクションの区別が何時になったら理解出来るんだ
・韓国はかっこよく、日本は極悪に描かないと納得しないのだろう
『ゴジラ-1.0』 はきょねん日本やアメリカで公開されたが、韓国では見送られ、今月になってやっとNetflixで配信された。映画の内容から、こうした騒ぎになることは見えていたから、韓国では公開されなかったのだろう。
第三者の外国人はこの映画をどう見たか?
米紙ニューヨーク・タイムズは「トラウマに陥った日本が、原子爆弾による肉体的・精神的破壊を少しずつ再建し、克服する努力を描いている」評し、英紙ガーディアンは「戦後の生存者の罪悪感を取り上げている」と評している。
戦争や特攻隊を「美化」しているといった批判は見当たらない。
実際、ゴジラに突っ込んだ元特攻隊員は、その直前に脱出している。「自爆」を拒否したのだから、「美化」の反対で、特攻隊の精神を否定したことになる。
そもそも、爆弾を抱えて敵艦船に突撃するあの自爆攻撃は、日本軍の常識的な発想ではなかった。「特攻隊の生みの親」と言われる大西瀧治郎さえ、「外道」と表現したほど日本軍の中でも強い抵抗感があったのだ。
『ゴジラ-1.0』 の中では「日本政府は戦争当時、軍人の生命を軽視した」という印象的なせりふが出てきたことからも、この映画は生き続けることや反戦を主題にしていることが分かる。
しかし、韓国人の価値観からすると、作品に日本の反省が描かれていないと、反戦とは見なされない。
日本と韓国のどうにもならない違いは、昨年末に公開した韓国がドラマの『京城クリーチャー』でも浮き彫りにされた。
このドラマでは、第二次世界大戦時、満州(中国東北部)で人体実験をしたとされる日本軍の「731部隊」(を連想させる組織)が登場する。
韓国の観客には、日本の「戦争犯罪」や「反省」を見たいという欲求があるから、制作側もその期待に応えようとする。いっぽう、日本の観客はそれをあまり望まないため、日本で制作される作品にそんなシーンは少ない。
日本と韓国のこうした立場や価値観の違いは埋められない。
では、『ゴジラ-1.0』のラストがこんな展開だったらどうだろう?
東京を破壊するゴジラはあまりに強大で、自衛隊では刃が立たない。そこで、日本の首相が韓国の大統領に助けを求めると、韓国軍がやってきてゴジラをすぐに退治する。
これなら、韓国の観客はとってもスカッとするから、きっと去年の時点で韓国で公開できたはず。
日本では大爆死は避けられないが。
やっぱり、日韓の立場の違いはどうすることもできないか。
> 日本と韓国のこうした立場や価値観の違いは埋められない。
両国民で「価値観」の違いがあることは分かります。
価値観が互いに異なるから、それに基づいた結果としての各々の行動がある。
でも「立場」の違いって、どういう意味ですか? 全く理解できません。
一部の韓国人がやっているその手の行動は、彼ら自身が選択してやっていることでしょ?
誰かに義務付けられたから、(本心は違うけど)やむを得ずやっているという訳ではないと思いますが。
「立場」って、とかく自身の行動に対する責任を回避したい日本人が好んで使う単語ですよね。(韓国人も含めて)外国人には理解しづらいでしょう。
「日本が、戦後を舞台とするあらゆる映画を「反省文」を書くかのように作ることはできないのと同じく、韓国の観客が、映画を歴史と結び付けて考えながら見てしまうこともまた、どうにもならない。」
こうした違いは、お互いの立場の違いから生まれると考えます。