韓国は1910年に日本へ併合され、いちど世界地図から消滅した。
いっぽう、日本は第一次世界大戦(1914年〜18年)の後には世界五大国の一つとなり、アメリカやイギリスなどと肩を並べることができた。
19世紀の半ばごろ、東アジアに欧米列強が迫ってきたころ、日本も韓国も鎖国政策をとっていて、どちらも植民地にされる危険性があった。
「スタートライン」は同じだったにもかかわらず、たどり着いた「ゴール」はまったく違った。
日本と韓国、近代でどうして差がついたのか…慢心、環境の違い…。
それにはいろんな要因があるけれど、日韓では近代化の成功/失敗によって、取り返しのつかないほどの差がついてしまったことは間違いない。
そして、それには両国の鎖国政策に大きな違いがあった。
きょう6月25日は、1641年に江戸幕府がオランダ人を長崎の出島に移住させた日。
幕府はキリスト教を社会を乱す重大要因と考え、厳しく禁じ、鎖国政策を推し進め、オランダとだけ貿易をつづけることに決め、ほかのヨーロッパの国々は日本からキックアウトした。
ところで、この「鎖国」という言葉は、実は日本製ではない。
蘭学者である志筑 忠雄(しづき ただお:1760年- 1806年)が、日本について書かれたヨーロッパの文献を訳している際に、「鎖国」という言葉を考案した。
志筑はほかにも、「引力」や「遠心力」といった今でも使われる訳語を生み出し、ニュートン物理学を初めて日本に導入した。
こんな感じに、「鎖国」といっても日本は世界から孤立していたわけではなく、出島という小さな窓口を通してヨーロッパとつながりを持ち、その先進的な科学を蘭学として学んでいたのだ。
いっぽう、この時代の朝鮮はヨーロッパの国とは一切関わりを持たず、中国(明や清)にだけ国を開いていた。
日本には何度か朝鮮通信使を江戸に送っていたが、それも1811年を最後に途絶える。朝鮮は対馬藩を通して日本とつながっていたが、国と国が交流していたわけではない。
つまり、朝鮮王朝は日本以上に厳格な鎖国体制をとっていたのだ。
1840年に清とイギリスが戦ったアヘン戦争で、日本と朝鮮の情報収集能力の違いが明らかになった。
日本はオランダから正しい情報を得ることができ、清はイギリス軍を相手に苦戦が続き、最終的に敗北したことを知る。幕府にとって、この結果は完全に予想外。
衝撃を受けた幕府は、西洋諸国との争いを避けるために鎖国政策をゆるめた。
それまでは、西洋船が来たら問答無用で追い払っていたが、1842年にそれを改め、遭難した船にかぎり、水や燃料を与えることを認める「薪水給与令」を発令する。
いっぽう、中国から情報を入手していた朝鮮は、清が敗北したと認識できなかったらしい。特に危機感を感じることもなく、対外政策を変えていない。
そもそも、清の中央政府が正しい情報をつかんでいなかった可能性も高い。
6月25日は1863年に、長州藩が下関海峡でアメリカ商船に対し、大砲をぶっ放した日でもある。
これによって、下関戦争がはじまった。
当時の長州藩は、「外国勢力を日本から駆逐してやる!」という過激な攘夷思想を持っていたから、目の前を異国船が往来することを許せなかった。
この後、長州藩はアメリカやオランダの船にも砲撃を加えた結果、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国連合軍を相手に戦うこととなる。
この下関戦争で敗れた長州藩は現実を受け入れ、攘夷なんて不可能であることをさとり、開国派が主流を占めるようになる。
同時に、戦った敵が今度は友(とも)になるという、少年ジャンプ的な展開もあった。
この戦争をきっかけに、長州藩はイギリスに接近して友好関係を築き、武器を仕入れて軍事力の増強を図り、倒幕に動き出す。
連合国によって占拠された長州藩の砲台
いっぽう、鎖国・攘夷政策を取っていた朝鮮も、1866年にフランスと戦い(丙寅洋擾:へいいんようじょう)、アメリカとも戦って(辛未洋擾:しんみようじょう)、不幸なことに2つとも撃退することに成功した。
朝鮮政府はこれでカン違いしてしまう。
大院君はこの結果を知って鎖国政策が正しかったと確信し、全土に斥和碑(せきわひ)を立てさせた。
この碑にはこんな文が刻まれている。
「洋夷侵犯 非戦則和 主和売国」
これは、西洋の国がやってきたら戦ってでも追い返せ、和親を主張する者は売国奴だ、といった意味になる。
朝鮮政府はこの石碑を各地に立て、鎖国体制を堅持する意志を示した。
つまり、朝鮮は当時の国際情勢や、自国の実力不足にまったく気づいていなかったのだ。
斥和碑
日本は一足先に鎖国政策をやめて開国し、西洋列強にならって明治維新をおこない、国の近代化に成功した。
鎖国政策をつづけていた朝鮮は、1876年に日朝修好条規を結び、日本によって開国させられた。その後、近代化に失敗し、1910年に国を失ってしまう。
結果的に見れば、日本はオランダ一国でも、ヨーロッパとの関係を維持していて正解だった。また、長州藩が下関戦争でボッコボコにされたこともラッキーだった。
朝鮮は中国だけに国を開いていたのは失敗だった。ニュートン物理学なんて知らなかっただろうし、ひょっとしたら、今でも志筑 忠雄が日本語訳した「引力」や「遠心力」という言葉を科学用語として使っているかもしれない。
フランスやアメリカに“勝ってしまった”ことも、運が無かった。
朝鮮と日本の幕府の鎖国は性格が違います。日本は表向きは鎖国策を使いましたが、実際は西欧と交流しましたが、朝鮮は徹底的に防ぎました。朝鮮500年を通じて、たった一人の商人も海外の他の国と貿易をしませんでした。一人の学者も海外に留学しませんでした。
朝鮮政府の許可なしに海の外に4kmだけ出ても「王都無断離脱罪」で死刑に処せられなければなりませんでした。釜山に”倭館”を設置して日本の対馬の人々に商売をさせたのが海外貿易の全てでした。しかし、それは対馬の人々が望んでしたことに過ぎません。
そのため、江華島条約の時期に朝鮮は建国初期よりむしろ退歩している状態でした。 朝鮮にとって「発展」という言葉はふさわしくありません。
>朝鮮政府の許可なしに海の外に4kmだけ出ても「王都無断離脱罪」で死刑に処せられなければなりませんでした。
これは初めて知りました。
朝鮮王朝は本当に国を閉じていましたね。
19世紀後半、国際情勢を見誤ってしまったのも納得です。
朝鮮は島に住む民を本土に呼び込み、島を空ける空島政策を実施しました。
民を統制しやすく、税金を効果的に徴収することができたからです。
独島(トクト、日本は竹島)付近にある鬱陵島(ウルルンド)も同様に人々が住めないようにしました。1600年代に日本人が漁業活動のため鬱陵島に来て、そこが無人島だと勘違いして定着したことがありました。それを発見した人物が釜山に住んでいた朝鮮人、安龍福(アン·ヨンボク)でした。彼は鬱陵島にいた日本人たちと一緒に日本に行き、鬱陵島が朝鮮の領土なので日本人を撤収させなければならないと話し、幕府と朝鮮政府間の交渉を作り出します。その結果、日本の幕府は日本人に鬱陵島への航海禁止令を出しました。ところが、アン·ヨンボクが再び日本に行き、独島も朝鮮の領土だと主張します。 当時、独島は日本が国際法で日本領土に編入するずっと前でした。ところが、朝鮮政府はアン·ヨンボクに「王土無断離脱罪」で死刑を宣告します。しかし、当時、朝鮮の高官が「安龍福は鬱陵島を守った功労があるので、死刑だけはしてはいけない」と説得し、安龍福は流刑になり、その後、安龍福の消息は途絶えました。朝鮮が正常な国家だったら、安龍福は大きな賞を受けるべき人物でしたが、朝鮮はむしろ彼を殺そうとしました。
朝鮮は独島に関心が全くありませんでした。 その結果、今日の独島は韓日両国の主なトラブルとなってしまいました。
>朝鮮政府はアン·ヨンボクに「王土無断離脱罪」で死刑を宣告します。
日本語版ウィキペデアには、「現在の韓国では竹島(独島)の領有を日本に認めさせた英雄とされており、当時民間外交を行った漁夫として中高教科書にも取り上げられている」と書いてあります。
当時と現在では、韓国の考え方は180°変わりましたね。