ほんじつ7月6日は「零戦の日」。
1939年のこの日、日本軍が零式艦上戦闘機、略して零戦(ぜろせん/れいせん)の初めての試験飛行をおこなった。
この戦闘機が制式採用された 1940年(昭和15年)は皇紀では 2600年にあたり、その下2桁が「00」だったことから、機体の名称は「零式」となった。
ゼロ戦は軽量化を徹底的に追求し、それを極めた機体で、最高速度は時速 530キロ、航続距離は 3000キロだった。(このへんの性能は参照する資料によって若干違う)。
優れた運動性能と重武装を誇り、ゼロ戦は当時の世界では最高レベルのスペックをもっていた。
ただ、ゼロ戦はある意味、攻撃に特化した戦闘機で、防御力は「ない!」と言っていいほど低かったらしい。
発想としては、「痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。」のまさに反対。
ゼロ戦は攻撃力に“極振り”した戦闘機で、アメリカやイギリス軍の戦闘機や爆撃機などを次々と撃墜し、空では「無双状態」だった。
1942年6月におこなわれたミッドウェー海戦で、日本軍は4隻の空母を失って惨敗したが、空の戦いでは、ゼロ戦は米軍機 120機のうち 80機を撃墜し、大勝利を収める。
アメリカ航空隊のある軍人は、「編隊を丸ごと一つ、壊滅させられてしまった。一機をのぞいて、すべて撃ち落されてしまったのだ」と絶句したという。
米軍では、「ゼロ戦を見つけたら逃げろ」「ドッグファイトをするな」という指示まで出された。
戦闘機どうしの空中戦では、敵機の後ろに回りこみ、機関銃で撃墜することが一般的。
その様子は、犬と犬がしっぽを追いかける姿に似ていることから、ドッグファイトと言われるようになった。
そんな「世界最強」の戦闘機が、なんで結局は米軍に負けたのか?
零戦三二型
米軍は不時着したゼロ戦を回収し、これを徹底的に分析して弱点を突きとめることに成功し、対ゼロ戦用の戦闘機F6Fヘルキャットを開発して実勢に投入した。
そして、ゼロ戦用の戦法もあみだしたという。
二機一組で「零戦」一機に対抗する方法(サッチ・ウィーブ戦法)が採用され、それを頑なに守った。さしもの「零戦」も急速に消耗し、その補充は困難になった。
「失敗の本質 (ダイヤモンド社. Kindle 版) 戸部 良一; 寺本 義也; 鎌田 伸一; 杉之尾 孝生; 村井 友秀; 野中 郁次郎」
ゼロ戦は「軽さ」を追求した戦闘機で、軽量な超々ジュラルミンを使っていた。それは特殊な素材で、入手や加工がとても難しかったため、ゼロ戦を効率的に大量生産することはできなかった。
一方、米軍ではヘルキャットの大量生産が確立されて、ゼロ戦一機に対し、それが二機同時に襲いかかってきた。
日本の国力では、生産力と兵力でアメリカにはかなわない。
日本軍では優秀なベテラン・パイロットがどんどんいなくなり、戦闘機のパイロットの質でも差がつきはじめる。
こうして戦争が長引くにつれて、ゼロ戦の優位性は失われていき、1944年になると防戦一方になったという。
結局、質では量に勝てなかった。
これは、日本がアメリカに敗北した理由と同じだ。
> 結局、質では量に勝てなかった。
> これは、日本がアメリカに敗北した理由と同じだ。
それはその通りだと思います。米軍のグラマンは、大型エンジンを搭載してゼロ戦が上昇しきれないほどの高空を飛び、パイロットの命を守る「防弾鉄板」を操縦席の周りに備えていました。
日米での工業生産力の差は太平洋戦争では決定的でした。そのことを思い知らされたからこそ、戦後の日本は工業力強化に邁進し、現在の経済力を築き上げたのだと思います。
でも「質より量」の考えにこだわった米国も、その考え方だけでは万全ではないことを戦後に思い知らされます。それが例えばベトナム戦争です。旧ソ連にとってのアフガン戦争も同じです。
アメリカはベトナムから撤退する未来が見えていなかったでしょうねえ。