幕末の日本へやってきて、開国を要求したアメリカ人はペリーだが、彼はアメリカが送り込んだ2番めの“刺客”だった。
アメリカ軍人として初めて来日して開国を求めた人物は、アメリカの東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルという。
彼が軍艦に乗って浦賀へ現れると、1846年のきょう7月20日、幕府にアメリカ政府が開国を求めていることを伝えた。
このとき日本の船が米軍の艦船を取り囲み、ビドルらの上陸を認めなかった。
アメリカ政府の要求に対し、幕府は「なるほど、だが断る!」と開国を拒否。これまで通り、オランダ以外の西洋の国と貿易をおこなう意思はなく、外交についてはすべて長崎で取り扱っているから、そちらに行ってほしいと言う。
ビドルは、日本人がアメリカに敵対心や不信感を抱かないように、それで交渉を打ち切り、米政府から与えられた使命を果たせないまま浦賀を出港した。
日本人が描いたアメリカの軍船
ビドルがやってきた7年後の1853年、彼と同じく東インド艦隊司令長官だったマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて再び浦賀に現われ、開国を求めた。
ペリーはビドルが受けた“歓迎ぶり”をよく知っていたから、自分は同じような扱いを受けないように努めたという。
Commodore Matthew Perry did the task with four warships. Perry was well aware of Biddle’s reception, and strove to make sure that he would not be treated in the same manner.
実際、ペリーは「一歩もひかない」という強い決意をもって交渉に臨んでいた。
一文明国がほかの文明国に対して当然とるべき礼儀にかなった行動を、権利として要求し、好意に訴えない。また、自分より前に訪れた先達たちに容赦なくふりかかったような狭量で不快な対応をいっさい許さない。
「ペリー提督日本遠征記 (M・C・ペリー; F・L・ホークス) 角川ソフィア文庫」
ペリーは有言実行の漢(おとこ)。
艦船に取り巻いている船の撤退を幕府に要求し、すぐに撤退しなければ武力で追い払うと脅した。すると、これで大部分の船は消えた。
それでも残っている船に対しては、米兵が武器をかまえて威嚇すると、船はすぐに海岸へ移動し、艦隊のまわりにいたす船はすべていなくなった。
ペリーにとってこれは「最初に成し遂げた重要な成果だった」とある。
このあとも、幕府側が外交についての要望は長崎で受け付けるから、そちらへ向かえと言っても、ペリーはそれをガン無視して浦賀から出ていこうとしなかった。
ペリーは武力行使をちらつかせて幕府を脅し、強引に上陸を認めさせ、自ら親書を責任者に手渡して去って行った。
そして、翌1854年に再び軍艦を率いて来日し、神奈川で日米和親条約を調印した。
ペリーはビドルという「しくじり先生」をよく研究し、彼とは反対にマッチョな砲艦外交をおこなって、日本を開国させることに成功したのだ。
> アメリカ政府の要求に対し、幕府は「なるほど、だが断る!」と開国を拒否。これまで通り、オランダ以外の西洋の国と貿易をおこなう意思はなく、外交についてはすべて長崎で取り扱っているから、そちらに行ってほしいと言う。
> ビドルは、日本人がアメリカに敵対心や不信感を抱かないように、それで交渉を打ち切り、米政府から与えられた使命を果たせないまま浦賀を出港した。
> ペリーは有言実行の漢(おとこ)。
> 艦船に取り巻いている船の撤退を幕府に要求し、すぐに撤退しなければ武力で追い払うと脅した。すると、これで大部分の船は消えた。
> それでも残っている船に対しては、米兵が武器をかまえて威嚇すると、船はすぐに海岸へ移動し、艦隊のまわりにいたす船はすべていなくなった。
「一文明国がほかの文明国に対して当然とるべき礼儀にかなった行動」をとったのは、どちらですかね?
まあでも、江戸幕府がペリーの要求に応えず鎖国していたままだったら、いずれおそらく、日本も中国と同じ運命をたどっていたのでしょうけど。
固く国を閉じていた朝鮮は近代化に遅れ、大失敗をしました。
ペリーが強引に日本へ開国を要求して結果的には良かったですよ。