日本の「奇妙な特徴」 天皇と将軍による二重統治体制 

 

日本の歴史で重要な外国人のツートップと言えば、戦国時代にキリスト教を伝えたザビエルと幕末に開国を求めたペリー。
そのために日本について調べていたペリーは、日本の政治にはこんな不思議な体制があることに気づいた。

日本には、二人の皇帝が並び立っているという奇妙な特徴がある。ひとりは世俗的な役割を、もうひとりは宗教的な役割を担っている(中略)一帝国に二人の主権が同時に存在するという、日本独自の特異な政治形態が成立した

「ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫) M・C・ペリー; F・L・ホークス」

 

日本には、二人の皇帝が並び立ち、二人の主権が同時に存在するという特異な特徴があった。
世俗的な役割を担っていたのは将軍で、宗教的な役割を担っていたのは天皇だ。
西洋世界はもちろん、歴史や文化で日本に近い中国や韓国でも、将軍と天皇による二重統治なんて存在しなかった。
こんなことがあったのは世界で日本だけ。
きょう7月29日に起きたことを見ると、そんな不思議な体制が成立した背景がわかる。

 

まずは、1156年に起きた後白河天皇と崇徳上皇方によるバトル、 保元の乱だ。
この年の7月29日、後白河天皇についた平清盛や源義朝の軍が崇徳上皇側に攻撃を仕掛け、勝利した。
朝廷内の権力争いであるこの保元の乱、敗者は崇徳上皇で、勝者は白河天皇のように見えるが、じつはそう単純でもない。
この戦いは武士の力を借りて解決したため、武士が政治の世界に進出するようになり、1160年代に平清盛を中心とする平氏政権が誕生した。
保元の乱で白河天皇は勝ったが、すぐに武士が政治の権利を奪って天下を取ったことになる。だから、慈円が『愚管抄』の中で「ムサ(武者)ノ世ニナリニケルナリ」と記した。

 

「日本最短」の記録をもつ仲恭(ちゅうきょう)天皇

 

このあと源平合戦で原氏が勝利すると、1185年に源頼朝が本格的な武家政権である鎌倉幕府を開き、事実上、朝廷から独立した。
天皇側はその状態に不満を感じていて、1221年に後鳥羽上皇らが鎌倉幕府を滅ぼすため、承久の乱を起こすが、北条泰時の軍に返り討ちにされる。
後鳥羽・土御門・順徳の三人の上皇が島流しにされ、1221年の7月29日、鎌倉幕府によって仲恭天皇が退位させられた。
この仲恭天皇が天皇でいられたのは約2ヶ月半だけ。
歴代の天皇の中で、仲恭天皇の在位期間が最も短い。
承久の乱の乱のあと、朝廷を監視するため、京都に六波羅探題が設置された。

保元の乱で日本は「武者の世」になりはじめ、承久の変によって、朝廷(天皇)に対する幕府(将軍)の優位が決定的になった。
日本である人物を将軍に任命できるのは、宗教的な権威のある天皇しかいない。幕府が天皇を倒さなかった理由のひとつに、このことがあるはず。
その後、江戸時代が終わるまで、日本では武家政権がつづいた。
第三者の外国人がその状態を見ると、「二人の皇帝が並び立っているという奇妙な特徴がある」と首を傾げることになる。

 

 

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2 件のコメント

  • 驚くべき政治体制です。
    韓国や中国の古代国家では想像できない政治体制です。
    幕府の将軍が実質的に国を統治しながらも天皇を打倒しなかったことも、内陸の古代国家では想像できないことです。しかし、そのような体制が社会、経済、科学技術の発達を促進できた原動力だったと思います。韓国や中国の古代国家は皇帝や王の1人独裁体制で競争する相手がいませんでした。それでも中国は外部の侵略者を防がなければならず、領土拡張の野望を持っていて発展することができましたが、朝鮮は中国さえ事大すればすべてが解決できる国だったので、500年間発展は全くありませんでした。

  • 天皇に政治権力のない状態は、明治の近代化で特に有効でした。
    政権を握っていた幕府が倒され、明治日本は天皇を中心にまとまることができました。
    中国では皇帝、朝鮮では王やまわりの人たちが国を私物化し、国全体の利益を優先しませんでした。だから、近代化に失敗しました。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。