【日本軍の敗因】必然だった、テニアンの戦いでの玉砕 

 

8月2日は太平洋戦争の末期、1944年に米軍との間で行われた「テニアンの戦い」で、最終決着がついた日。ということで、これから日本軍があの戦争で敗北した原因について書いていこう。

テニアン島は太平洋上、サイパン島のほぼ隣(約8km)にある。
もともとテニアン島はドイツが統治していたが、第一次世界大戦の敗北によって、国際連盟から日本が統治をまかされることとなった。
当時の日本の重要な拠点はサイパン島(和名で彩帆島)で、ここに日本軍の司令部が設置されるなど、日本にとっては「南の守りの要」となっていた。
テニアン島にはサイパンから移住するなどして、1944年(昭和19年)には 15700名の日本の民間人が住んでいた。

 

戦前にあった彩帆(サイパン)神社

 

日本統治時代のテニアン島

 

日本軍はテニアン島が戦略的に重要な位置にあると判断し、ここに大規模な飛行場を建設した。それが、当時は南洋最大といわれたハゴイ飛行場。
ちょっと時間を進めると、1945年に広島と長崎に原子爆弾を投下した米軍のB-29爆撃機は、このハゴイ飛行場から飛び立っている。
テニアン島から広島までは片道で6時間 30分ナリ。

そんな戦略的に“おいしい”島を米軍が無視するはずがない。
1944年7月 24日の朝、米軍が上陸作戦を開始し、日本軍が反撃して激しいバトルがはじまった。
しかし、約 8,500人の日本軍に対し、米軍は 54,000人と圧倒的な戦力差があって、はじめから勝てるはずもなかった。
日本軍は当たっては砕けての繰り返しで、上陸からわずか 10日後、最後の突撃攻撃を行って玉砕した。

残存部隊と民間義勇隊等約1,000名が、アメリカ軍に対し突撃を敢行した。アメリカ軍は、機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえたため、日本軍に死傷者が続出し、緒方連隊長は後退中に戦死した。

テニアンの戦い

 

日本軍の戦死 8,010人、米軍の戦死 328人という一方的な被害数の差をだし、テニアンの戦いは終結した。

 

テニアン島から日本に向かうB-29の群れ

 

あの戦争で日本軍が負けた原因としては、圧倒的な戦力差、日米の物量の違いを挙げる人がよくいる。
敗戦時にフィリピンにいて、米軍の捕虜となった小松真一氏は、日本軍が負けた原因として次のことを指摘した。

・精兵主義の軍隊に精兵がいなかった。
・物量、物資、資源、すべて米国に比べ問題にならなかった。
・日本は人命を粗末にし、米国は大切にした。

いちばん上の「精兵主義の〜」は、精兵でないとできない困難なことを、日本軍は凡人の兵士に要求するから現実的に無理が生じたことを指す。
一方、アメリカは圧倒的な物量があって、訓練をしていない兵でもできる作戦をやっていたという。
元日本陸軍の兵士で、戦後は評論家として活躍した山本七平氏はこう書いている。

日本人全部がいかに激烈な軍国主義者になったところで、昭和のはじめの日本の常備兵力は、実質的には日露戦争時と変らぬ旧式師団が十七個あるだけであった。

「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条  (角川oneテーマ21)  山本 七平」

 

日本軍の一個師団の火力は、アメリカ軍の戦艦1隻の5分の1以下だったという。つまり、五個師団と半分の火力を合わせて、ようやく戦艦一隻分に相当する。
そして十七個ある師団のうち、米軍の海兵師団と互角に戦える能力のある師団は一個か二個だった。

戦争プロパガンダで「日本軍は強い、精強だ!」と思い込んだとしても、現実は変わらない。
最強の気分になったところで、師団の数や火力がアップするわけではないのだから。
プロパガンダは国内的には、心理的な効果を発揮し、戦争を遂行させる推進力となったが、アメリカ軍には関係ない。
テニアンの戦いでの「8010人:328人」という犠牲者数の差はその具体的なあらわれだ。

 

 

【生きろ】日本軍人・廣枝音右衛門に台湾人が感謝する理由

太平洋戦争の現実①敵は“飢え”。日本兵がフィリピンでしたこと

80年前からある日本人の特徴 「教育はあっても教養がない」

【ガダルカナル島の戦い】日本陸軍の墓地、米軍には感動の名

いま日本人はあの戦争をどう考える?韓国とアジアの視点も

ドイツ大使館の“戦争ツイート”に日本で反発、さらに中韓も参戦

 

コメントを残す

ABOUTこの記事をかいた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。