これは、昔アメリカに住んでいた日本人から聞いた話。
彼には親しく付き合っていたアメリカ人の男性がいた。ある時、その人に後ろから近づいて、「やあ」と声をかけながら肩に手を触れると、彼は鬼のような形相をして振り返った。ただならない様子に、その日本人はすっかり驚いてしまった。
なんでそうなったのか?
1964年にトンキン湾事件が発生し、翌65年に米軍による北ベトナムへの爆撃(北爆)が開始され、ベトナム戦争がはじまった。
アメリカはこの戦争に250万人以上の兵士を動員し、高性能の武器を駆使して戦ったが、戦況は悪化し、被害は増え続けていく。それで1973年にベトナムと和平協定を結び、ニクソン大統領は国民に向かって「ベトナム戦争の終結」を宣言した。実質的には、アメリカ政府が歴史上、初めて戦争で敗北を公表した瞬間だ。
その後、米軍はベトナムから撤退し、1975年に北ベトナム軍が南ベトナム首都サイゴンを制圧し、ベトナム戦争は完全終結した。
その20年後、1995年のきょう8月5日、アメリカとベトナムが和解し、国交を樹立して、ベトナム戦争は過去の出来事となった。歴史の上では。
米軍側はこの戦争によって、約6万人の戦死者と数十万の負傷者を出す。戦死者の遺族や心身にダメージを負った帰還兵にとっては、まったく「終わり」にはならない。
米軍のヘリから、放り投げられるベトナム人
この時、彼が死体だったかは分からない。
戦争が終わった後、帰還した兵士たちが心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむケースはよくある。
しかし、ベトナム戦争では特にそれが多く、PTSDをわずらった元米軍兵は15.2%にのぼったという。
その大きな理由に、この戦争で米軍は兵士たちに、恐怖や不安、緊張を軽減させるためだろうが、大量の抗精神病薬を与えたことが挙げられる。それでこの戦争は「薬理的な戦争(pharmacological war)」とも呼ばれるという。
その中には、覚せい剤の「スピード」も含まれていた。退役軍人によると、それはキャンディーのようにバラまかれ、兵士たちは服用する量や回数にほとんど注意を払っていなかった。
薬物によって眠気はふっ飛び、あらゆる光景や音が鮮明になり、そして時には、自分が不死身になったように感じたという証言もある。
強力な薬物を投与することで、兵士たちはその瞬間は恐怖を忘れ、勇気や戦う気力が湧いてきたのだろうが、精神科医の助言もなしに、薬を服用しつづけた代償は大きかった。
このことは、以前の戦争と比較して、戦後の退役軍人のPTSDのレベルが前例のない規模になった理由の大部分であるという。
*veteran(ベテラン)は退役軍人のこと。
PTSD levels among veterans after the war are at unprecedented levels compared to previous wars.
映画『7月4日に生まれて』でも、ベトナム戦争で民間人や友軍兵士を殺害し、大きな精神的なショックを受けた帰還兵が帰国後、戦場での記憶がよみがえってくることに苦しみ、自暴自棄になる姿が描かれている。
話を冒頭のアメリカ人に戻すと、この男性もベトナム戦争で兵士として戦っていた。
アメリカに帰国してからも、戦場の記憶はまだ強く残っていたから、後ろから人が近づく気配がすると、自然と恐怖が湧いてくる。
だから、横に並んでから声をかけてほしいと言われ、日本人はベトナム戦争の傷跡の大きさに言葉を失った。
当時(おそらく1970年代)のアメリカ社会では、手足や目を失った人を何度も見かけたという。
アメリカ社会はベトナム戦争で非常に深い傷を負いました。その後遺症は90年代になってもまだ残っていて、そのためベトナム人と間違えられたことで、アメリカでひどい目に会わされたこともありました。ですがベトナム戦地の話を聞いた私は、とても彼らを恨む気は起きなかったです。あの楽天的で自信家のアメリカ人が、戦争でこんなにも傷つくものかと驚きでした。
戦時に国家が手段を選ばないことはどこの国でも同じです。太平洋戦争では、特攻隊として出撃する若いパイロットたちに、覚せい剤の「ヒロポン」が配布されたそうです。
戦後しばらくの間、ヒロポンが合法的に市販されていた理由は、特攻隊に配布されたその話が知られるようになったことが一つのきっかけだったとか。昔、町工場を経営していた今は亡き私の祖母も、「朝鮮戦争特需で寝る間もないほど忙しい時にはヒロポンを撃って、お前のお父さんを育てながら懸命に働いたものじゃ」と言ってました。
現在のアメリカ社会では、ベトナム戦争について語られることは本当に少なくなったと思います。
でも、あれに触れると、今でも大きな失意の念を感じるらしいですね。