李淵と源頼朝の行動でわかる、日本と中国の歴史の違い

 

きょう9月8日はヨーロッパでは1001年に、ヴァイキングのリーダーだった「のっぽのトルケル(Thorkell the Tall)」と彼の軍勢がイギリスの都市カンタベリーを襲撃した日。カンタベリーは包囲され、3週間後に陥落したらしい。
彼はアニメ『ヴィンランド・サガ』の人気キャラ、トルケルの元ネタとなった人物だ。

 

さて、9月8日は618年に中国で、隋に反乱を起こした李淵(りえん)が「霍邑の戦い」で隋軍に勝利した日でもある。
隋の第二代皇帝・煬帝は中国史上でも有名な暴君で、100万人以上を動員して高句麗遠征を行ったが失敗し、国内は疲弊して人心は離れていった。
ちなみに、煬帝は日本とのかかわりが深い。聖徳太子が遣隋使として小野妹子を派遣し、「日出ずる処の天子〜」という国書を渡した相手が煬帝だ。

これがきっかけで各地で反乱が発生すると、隋に仕えていた李淵が「いつやるの? イマでしょ!」と隋を倒すことを決意。李淵は霍邑の戦いで隋軍を撃破したあと、いきなり自分が皇帝になることはなく、「あやつり人形」として恭帝 侑(きょうてい ゆう)を隋の第3代皇帝にした。
そして、翌618年に恭帝 侑から帝位をゆずり受けると、李淵は新皇帝となって唐王朝をはじめる。「用済み」となった恭帝侑はおそらく殺害された。
中国の歴史で恭帝 侑は正式な皇帝とみなされていないため、一般的には隋朝の最後の皇帝は煬帝となっている。

 

日本で9月8日は、1180年に源頼朝が伊豆国で兵を挙げた日になる。
李淵と頼朝の行動を比べると、中国と日本の歴史の違いが見えてくる。

平安時代末期は朝廷の「末期」でもあった。
京都では、武士の平家一族が「平家にあらざれば人にあらず」と豪語し、日本の支配者のように振る舞い、後白河法皇や貴族などの反感を買っていた。
それが頂点に達すると、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が各地にいた源氏に「平家を討て!」と命令(令旨:りょうじ)を出す。
それを受け取った頼朝は挙兵を決意したことで、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦がはじまった。この戦いは、源義経の率いる源氏軍が1185年の壇ノ浦の戦いで勝利し、平家一族は滅亡した。
「平家でなければ人間ではない」というセリフは日本屈指の死亡フラグ。
李淵は「霍邑の戦い」に勝利したあと、隋を滅ぼして自分が皇帝となって唐王朝をスタートした。
頼朝はこの戦いのあと、将軍となって鎌倉幕府を開いたが、天皇や朝廷を滅ぼすことはしなかった。李淵は名実ともに中国の支配者となったが、頼朝は天皇の家来のままでいながら、日本の実質的な支配者となる。これが両者の大きな違いだ。

壇ノ浦の戦いのあと、頼朝と義経の蜜月関係は終わって兄弟は敵同士となる。
頼朝は後白河法皇から義経追討の命がくだると、軍を送って義経を追い詰めていく。そして、義経を捕らえるため、朝廷から許可(文治の勅許)をもらい、全国に守護と地頭を設置した。この年、1185年を鎌倉幕府が成立した年とする見方もある。

 

では、李淵と頼朝の違いを見てみよう。
頼朝は平家打倒の兵を挙げたときも、義経を討つときも、守護・地頭を設置したときも独断ではなく、天皇やその息子の命令に従って動いた。おそらく頼朝は自分で実行できる力を持っていたけれど、天皇や朝廷の権威を尊重し、家臣を超える身分にはならなかった。
(頼朝が軍事力をちらつかせて朝廷を脅し、命令を出させたこともあったけれど。)
頼朝は朝廷から政治の権利を奪って幕府を開き、日本初の本格的な武家政権をはじめたが、彼は朝廷には手を触れず、日本では幕末までの約700年の間、長幕併存という独自の政治体制がつづいた。
李淵はまったく違う。隋の皇帝や朝廷の権威なんて「ガン無視」で、武力で圧倒し、ついには隋を滅ぼして自分が皇帝となって王朝をはじめた。
中国ではそんな易姓革命が何度も起きたが、日本では一度もなかった。逆に中国では、日本のような朝廷と武家政権による二重統治はなかった。
日中の歴史はこの点が違う。

 

 

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2 件のコメント

  • 英語の revolution、つまりブルジョワ市民革命(bourgeois revolution)とか共産主義革命(communist revolution)に使われる単語に対し、「革命」という漢語を翻訳として充てたのはおそらく明治期の日本人でしょうね。誰だろう?
    でも、上記のような欧米の revolution と、中国の「易姓革命」とではかなり内容が違います。

  • 日本に亡命していた孫文がrevolutionの意味の「革命」を知って感激し、辛亥革命を起こして清朝を打倒したという話もあります。
    この西洋的な「革命」を訳したのは日本人であることは間違いないでしょう。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。