11月9日は、西洋では1799年にブリュメールのクーデターが起きて、フランス革命が終わった日。
1789年にフランス革命がはじまり、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、フランスで王政は廃止された。しかし、その10年後、ナポレオンが軍事クーデターを起こして権力を握り、1804年に皇帝となってナポレオン1世が爆誕。
フランスは結局、君主制に戻ったことになる。
いっぽう、東洋で11月9日は1867年に、将軍・徳川慶喜が京都の二条城で大政奉還をした日になる。
このときは薩摩・長州藩を中心に武力で徳川幕府を倒そうとする機運が高まっていて、幕府側も「武力衝突はヤバいかも」と危機感を感じていた。そこで慶喜が先手を打って政治の権利を天皇に返し、自分が中心舞台から退くことで倒幕の意義をなくそうとした。
内戦を望まなかった坂本龍馬は将軍の決断を知って、「これで戦争は起こらない!」と涙を流して感激したという。さらに慶喜は11月19日に、征夷大将軍を辞職することを朝廷に申し出る。
この日本的な革命によって、西郷隆盛らは大義を失い、いったん倒幕活動を中止した。
しかし、これはカタチだけだったと言われる。
というのは、源頼朝が12世紀に幕府を開いて以来、天皇や朝廷は政治から遠ざかっていたから、「これからは、あなたたちが政治をしてくださいネ」といきなり丸投げされても、公家たちにはその能力がなかったため、困ってしまった。
それで朝廷は将軍の辞職を認めず、慶喜を将軍のままでいさせて、体制が整うまで政権を戻した慶喜に政治の実権を与えることにした。
つまり、慶喜は大政奉還を宣言したけれど、彼は将軍として政権を持ち、実質的に日本を動かしていたことになる。
それでは意味がないということで、1868年1月に「王政復古の大号令」が出され、朝廷は慶喜が申し出た将軍職の辞職を認め、幕府を廃止した。これに慶喜と幕府を支持する会津藩などの勢力が反発したことで、新政府軍との戊辰戦争が始まり、これに負けた幕府は江戸城を無血開城して完全に消滅した。
西郷隆盛は最後まで慶喜を殺害しようと考えていたが、イギリス公使のハリー・パークスに西郷の尊敬するナポレオンを例に出され、反対されたという。
ナポレオンでさえ処刑されなかったのに、新政府と戦う意思のない慶喜を攻撃するのは万国公法に反する。パークスにそう諭されたことも影響し、西郷は考えを変え、慶喜を生かすことにした。
エリザベス・シドモア(1856年 – 1928年)
江戸幕府の最後の将軍となった徳川慶喜は最後にちょっと粘ったが、結局は自ら政治の舞台から退いた。ちなみに、彼は江戸城に入ったことのない唯一の将軍でもある。
この大政奉還と王政復古を当時の西洋人はどう見たのか?
明治時代に日本へやってきたアメリカ人女性のシドモアは、旅行記(シドモア日本紀行)に「古い秩序の突然の放棄」は「欧州の間ではたいへんな驚きでした」と記し、また「王政復古は、今世紀最大の驚異的政治問題を提示しました」と書いている。この日本の動きは西洋人の価値観や考え方を超えていたため、彼らには衝撃的だったらしい。
歴史の「タラレバ定食」にはキリがない。
でも、もし、フランス革命が起きてすぐにルイ16世が政治の権利を放棄し、民衆に譲渡して自分は引退すると宣言したら、どうなっていたか?
大政奉還をされた西郷隆盛のように、革命勢力はその意義を失って一時的に動きを停止して、ルイ16世とマリー・アントワネットはギロチンで処刑されなかったかもしれない。
しかし、ルイ16世の頭の中には、自分から政権を放棄する考えはなかったはずだ。ヨーロッパ人にとってはそれが常識的で、欧州で起きた革命では国王が処刑されたり、皇帝が国外へ追放されたりしていて、政権を自主返納したという話は聞いたことがない。
ヨーロッパ人からしたら、国内最大の実力者が地位や権限を突然放棄したことは驚異的に見えたに違いない。
日本人からすると、大政奉還は天皇のものを天皇へ返しただけで自然なことだけど。
当時の日本とヨーロッパで異なる点は、日本の将軍は(形式的であるにせよ)天皇から任命されてその地位に就くのであり、政権を「返上する」先があったということです。ヨーロッパ諸国の王であれば政権を返上しようにも返す先がなく、結局は「放棄するだけ」となったはず。
政権を放棄してしまえば、次の政権を奪取しようと国内の諸勢力による内戦が勃発するのは目に見えていますから、ヨーロッパのような地理的条件(多数の国が大陸内で隣接している)では、結局は、その混乱の間に外国勢力に攻め込まれて占領下に置かれてしまいます。どのような王家だって、そのような事態は避けたかったことでしょう。
徳川幕府が政権を返上する先として天皇が存在していたこと、また、日本は海に囲まれているので国内で多少の混乱があったとしても外国勢力に即座に侵略されるリスクは少なかったことの2点が、偶然の条件としてラッキーだったと思います。
天皇と幕府の二重統治制度は日本だけの政治システムですから、欧米の歴史とは違いますね。
1884年、朝鮮の若い開化派(金玉均、徐載弼など)は朝鮮の封建体制を崩し、日本のような立憲君主制国家を樹立するために甲申政変を起こしました。金玉均(キム·オクギュン)の師匠は福澤諭吉でした。しかし、清国の介入により、このクーデターは失敗してしまいます。表面的には清の介入でしたが、実は高宗が自分の国王としての権限が縮小することに対する反感で失敗したも同然です。この失敗により、福澤諭吉は「脱亜入欧」を標榜し、朝鮮の改革を放棄してしまいます。
朝鮮の滅亡は極めて当然のことでした。
朝鮮王朝には偉大な国王もいましたが、19世紀末期は恵まれませんでした。
高宗も閔妃も大院君も権力を手に入れようして民衆のことを考えていません。
朝鮮王朝は27人の王が518年間統治しましたが、そのうち偉大な王は一人もいませんでした。
王の任務といえば、富国強兵でしょう。しかし、朝鮮の王の中で富国強兵に努めた王は一人もいませんでした。
視点によって違いますが、韓国では世宗と正祖が名君とたたえられています。