自動車レースの最高峰F1で、これからレースクイーンの姿が消える。
F1の公式ホームページで、今期のレースから「グリッドガール」が廃止されることを発表された。
朝日新聞の記事(2018年2月1日)によると、そうした女性は”今の時代には合わない”らしい。
F1の商業面を統括するブラッチ氏は「グリッドガールは長年、F1と切り離せない存在だったが、F1のブランドイメージや、現代社会の常識に合わなくなった」とコメントした。
F1レースクイーン、今季から廃止 「社会常識を考慮」
「グリッドガール」と「レースクイーン」は違うのだけど、朝日新聞の記事では「『グリッドガール』は日本で『レースクイーン』とも呼ばれる女性モデルのこと」と書いてある。
その違いはおいといて、ここで重要なことは「F1からレースクイーンが消えますよ」ということ。
画像:AngMoKio
上がグリッドガールで下がレースクイーン(ウィキペディアから)
「現代社会の常識に合わなくなったから」という理由で、仕事を失うのは辛い。
自分の存在を全否定された気持ちにならないか?
F1がレースクイーンの廃止を決定した背景には、フェミニスト団体からの「女性差別だ!」という非難がある。
女性が”体で勝負する”レースクイーンやミスコンに対しては、前からフェミニスト団体から批判はされていた。
それは知っていたけれど、実際にレースクイーンが廃止されると聞くと、時代の区切りを感じてしまう。
j-castの記事(2018/2/01)では、「スポーツでの女性の地位向上を訴える」という団体の声を紹介している。
「今後、より多くのマーケッターやスポンサーが、21世紀においてはグリッドガールの存在は受け入れられるものではなく、多くの男性と女性にとって不快なものであると気付くだろう。こうした時代遅れの習慣を続けることで、ボクシングや自転車、モーターレースなどは新たなファンを得る機会を逃すだろう」
「存在は受け入れられるものではない」
「多くの男性と女性にとって不快なものであると気付くだろう」
「時代遅れ」
レースクイーンたちは、「女性の地位向上を訴える」団体のこの言葉を聞いてどう思うのだろう?
記事のタイトルにあるように、そうした女性は「仕事を失った」とか「必死に働き、好きなことを仕事にしている私たちにとって、とても悲しく、腹立たしい」とツイートしているという。
このニュースにネットの反応は?
・女を追い込むフェミニスト
・でも別にいなくてもいいよ
気持ち悪いカメラのおっさんとかいなくなるし
・レースキングを立たせよう
・チアガールも全部廃止か
・次はグラビアアイドルを禁止すべき
水着や下着姿を見せられるのは不快
・やりたいって人がいるのに外野が圧力掛けて潰すのはなんか違うよね
・現代社会の規範にあってないってのは
すごいフレーズよ。
なんでもこれで封じちゃう。
「フェミニストたちのせいで、私たちは職を失った」という言葉を見て、思い出したことがある。
タイを旅行中、バンコクに住んでいる日本人と知り合って、話をする機会があった。
その日本人はタイ人の女性と結婚していて、タイの事情にとてもくわしい。
その人が一昔前の「日本男性とタイの風俗」について、話をしてくれた。
そのときは、タイの風俗を利用する日本人が問題視されていた時代で、特にフェミニスト団体がそうした男を敵視していた。
その時代をふり返って、こう話す。
「あのころ、日本人のおっさんたちはぶっ叩かれていましたね。まあ、怒られても仕方のない部分はありましたけど。でも、なかには風俗店の前で待っていて、店に入ろうとした男の写真を撮っていた日本人女性もいたんですよ。こういうことがあって、日本人が風俗店に行かなくなったんです」
で、その後どうなったのか?
「困ったのは店の女性たちです。客が来なくなったら、給料も休みも減りますからね。仕事を失った女性もいましたよ。日本人って、”良い客”だったんです。暴力をふるったり金銭のトラブルを起こしたりしませんから。彼女たちにも生活があります。日本人客が来なくなったら、他の外国人の相手をしなくてはいけなくなるだけです。『日本人の方が良かった』と言ってた女性は、たくさんいましたよ」
こういうことで、このときのバンコクでは「フェミニストたちのせいで、私たちは大変な思いをしている」という女性がたくさん生まれたという。
タイで風俗店に行く人を支持する気はないけど、何事にもやり方と程度がある。
「悪いことはなくせば良くなる」ということでもない。
フランス革命と同じ時代、日本に田沼意次(1719~88)という老中がいた。
田沼意次
商業資本と結んで積極的に産業振興策をとったが、賄賂政治で不評を買い、将軍家治の死と共に1786年に失脚した。
「日本史用語集 (山川出版)」
ここに書いてあるように、田沼意次というと「ワイロ政治」で有名な人。
その意味で、田沼時代は”汚い”時代だった。
この後「寛政の改革」をおこなった松平定信は、田沼意次の逆を行く。
彼は商業資本を抑圧して風紀を粛清した。
でも、この改革はうまくいかなかった。
このころ江戸では、松平と田沼の時代を比べるこんな狂歌が登場する。
「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁(にご)りの田沼恋しき」
「清く正しく美しく」という考え方は大事だけど、それを現実の世界に厳しく求めると息苦しくなる。
世の中には、ちょっとぐらいの濁りや不純があってもいい。
それで生活している人たちもいる。
それに、何が「濁り」で「正義」かは人によって違う。
コンビニのエロ雑誌をすべて撤去するより、「少しぐらいあってもいいか」と認める社会のほうがきっと生きやすい。
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