日本人の夫と結婚して、もう20年以上日本に住んでいる日系ブラジル人の女性が知人にいる。
キリスト教徒(カトリック)のその人は、日本人の言う「わたしは宗教を信じていません。無宗教です」という言葉を信用しない。
「ではあなたは死んだあと、焼却炉で死体を焼いて遺灰をそこらにまいても平気なんですね?」ときくと、「それは嫌ですね。ちゃんと仏教のやり方でお葬式をしてもらいたいです」という返事がかえってくるから。
*法律の問題ではないから、合法/違法というのはここでは関係ない。
カトリック信者のその人にしてみれば、これは信仰心のある証拠で無神論者のことばではない。
だから、日本人は無宗教ではなくて信仰が無意識にあるとこのブラジル人は話していた。
毎週日曜日に教会へ行く習慣もないし、日本人の日常生活をみると宗教との結びつきがないようだけど、信心はいつも奥底に眠っている。
だから何かのきっかけさえあれば、ふだん気がつかない宗教心が表に現れる。
先ほどのブラジル人は地鎮祭(じちんさい、とこしずめのまつり)もそのひとつという。
地鎮祭とは、新しく家を建てる前などに、土地の神様に「この土地を使わせていただきます」という挨拶と「工事が無事に終わりますように」というお願いをする儀式のこと。
くわしいことはこの記事をどうぞ。
自分は宗教を信じていないと言う日本人にきいても、地鎮祭はやったと答える。
地鎮祭の例
人の死や家を建てるときなど人生の重要な節目のとき、日本人は宗教の教えにもとづいてちゃんと儀式をおこなう。
その日系ブラジル人からみれば、そういう人は無宗教・無神論ではない。
これは完全に宗教行為だから、こんな儀式をする人間が「わたしは無宗教です」なんて言っても信用しないらしい。
知り合いのイギリス人はその意味で無宗教の人だった。
その人は子供のころ親に連れられて教会へ行っていたけど、20歳ぐらいのとき、キリスト教について真剣に考えて信仰をやめて親に告白した。
両親は驚いたけど、その決断を受け入れたという。
宗教を信じていないと言うそのイギリス人は結婚式を挙げず、役所に書類を提出しただけ。
だからキリスト教徒でもない日本人が教会で結婚式を挙げるのを見ると、不思議というより宗教を侮辱しているような気がするらしい。
自分のなかで区切りをつけて宗教と決別した無宗教の人からしたら、自覚がないだけの無宗教という日本人は中途半端に見えると思う。
農家が中心となって行う地鎮祭
でも日本で行われる儀式が、宗教と文化のどちらに分類されるかを判断するのはむずかしい。
たとえば地鎮祭は宗教の儀式かただの習慣か?
形だけ頭を下げるけど、信心はまったくない人もいるだろうし。
それを裁判所が判断したケースがある。
1965年の津地鎮祭訴訟がそれで、三重県津市で体育館が建設されるときに市長が地鎮祭の費用(神職に対する報償費金4000円、供物料金3663円)を公金から出したことで、政教分離の原則に反すると訴えられた。
一審は原告の請求棄却、二審は原告勝訴と判断が分かれたけど、最終的には、最高裁が宗教儀式というよりは社会的な儀礼と位置付けて原告の訴えは退けられた。
宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ
葬式も宗教とのかかわり合いをもつものけど、社会の一般的慣習にもとづく儀礼で世俗的なものだと思う。
地鎮祭や葬式などの儀礼行為には宗教と文化の要素があるから、「0:100」で割り切るのはむずかしい。
そんなあいまいなことを何となくやっていると、本人は無宗教のつもりでも外国人から見ると「それは違う」となることもある。
おまけ
地鎮祭とよく似た儀式に起工式がある。
でも鹿島建設のホームページによると、それぞれお祈りをする神様がちがう。
地鎮祭の祭神
・大地主神(おおとこぬしのかみ:大地の守護神)
・産土大神(うぶすなのおおかみ:土地の氏神様)
起工式の祭神
・手置帆負命(たおきほおいのみこと:工匠の守護神)
・彦狭知命 (ひこさしりのみこと:工匠の守護神)
・産土大神(うぶすなのおおかみ:土地の氏神様)
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まあ、欧米キリスト教国人にとっては、無宗教とは、1)キリスト教徒、2)異教徒(ムスリム、仏教、その他)、3)無宗教者(=共産主義者)、の 3)みたいなものですからね。その彼等から見たら、日本人は「共産主義者と言うほどではないから、仏教・神道・その他伝統文化をごちゃまぜで保持している異教徒」という印象では。
多くの日本人は、「無宗教」と言うよりは、「信仰心の薄い多宗教」とでも表現する方がより実態に近いと思います。で、そのような宗教心(?)を持っているのは、おそらく、世界でも日本人だけかもしれない。
文化と宗教って、本当は区分して分けるような別々の概念ではなくて、宗教も広い意味で文化の一部だと考えます。
信仰心は薄いのですが、おっしゃる通り、ないということはないと思います。
宗教から生まれた文化(宗教文化)もありますから、それを宗教とみるか文化とみるかはその人の価値観しだいです。
私は、信心がなければ文化行為を思っていますが。
日本人は宗教に熱くなくて、おおらかなことはいいことですよ。それで世の中が平和になっていますしね。
日本人は宗教団体が嫌いなだけで、神様を信じているんですよ。
特に新興宗教で詐欺みたいな金儲けをしているイメージが強いせいと、
海外の自爆テロ関係で、宗教団体と狂信的な信者が嫌いなのです。
でも、罰が当たるとか未だに信じているし、地鎮祭をやらないで何かあったら困るという発想ですね。
自分が損しない事が重要で、神様が怒らないなら普段からお祈りもしないってだけです。
神頼みも都合が良いですけど、自分が得すると思えることならってことで、
他国の宗教と違い、神様が中心ではなく、自分が中心なんですよ。
普段は自覚や意識がないだけで、心の中では信仰があると思います。
日本人は無宗教というわりには、キリスト教が全然ひろがりません。隣の韓国では布教がうまくいっているのですけど、日本ではあまり成功しません。
クリスマスやバレンタインなどキリスト教文化は好きなのに、キリスト教の信者にはなろうとしません。
根底にそれを拒否する信仰があるということだと思います。