1823年のきょう8月11日、ドイツ人のシーボルトが長崎へ上陸した。
船でヨーロッパから来日していただいたのだけど、江戸時代だった当時の日本では、実はこれは違法行為。
日本に来ることを幕府に許されたのは、オランダ人だけだったから。
それで、オランダ語の発音に違和感をおぼえた日本人からツッコまれると、シーボルトは「わっ、わたしはオランダの山間部の出身なんです。”山オランダ人”だからなまりがあるんですよ~」と、低地のオランダに山なんてないのにテキトーなことを言う。
あえて言えば現在のオランダ本土には「ファールス山」(約323メートル)という最高峰の山があるが、見た目はなだらかな”丘”のレベル。
彼をふくめ「出島の三学者」と呼ばれたケンペルやツンベルクもオランダ人ではないから、ヨーロッパの事情をよく知らない江戸時代の日本人が相手なら、誤魔化そうと思えばどうにでもなったらしい。
そのころ日本に来た外国人は出島から出ることを禁止されていたが、優秀な医師だったシーボルトには特別枠が設定され、街中にいる病人を診察するために特例で長崎へ行くことが認められた。
それだけでなく、長崎の郊外で彼は「鳴滝塾」という診療所を兼ねた塾を開き、ここで日本人に医学や蘭学を教えた。
鳴滝塾で学んだ有名人には「蛮社の獄」をくらった蘭学者の高野長英や、富士山の高さを初めて測った二宮 敬作(にのみや けいさく)などがいる。
ちなみに「鳴滝」という塾名は、長崎奉行の牛込 重忝(うしごめ しげのり)が京都・嵯峨野の近くにある「鳴滝」にあやかって付けたもの。
長崎で知り合った日本人女性と結婚して、娘に恵まれたシーボルトは完全に日本社会にとけ込んだ。かと思われた。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(長いわっ)
この「フォン(von)」は貴族階級を意味する。
日本にはフツウにやってきて、滞在時間中は患者を治療したり日本人に医学を教えたりするなど、歴史に残る活躍をしてシーボルトはめっちゃ感謝された。
でも、お別れの仕方は最悪。
1828年に予定どおりに帰国する直前、シーボルトの積荷の中から、幕府が持ち出しを禁じた日本地図がでてきた。
日本を攻め込む勢力にとって、地図は最高の「役立ちアイテム」になるから、幕府がこれに敏感になるのはアタリマエ。
その少しまえの1825年に、西洋船は見つけしだい大砲をぶっ放してでも追いはらえ!という過激な異国船打払令が出されていたから、タイミングも悪かった。
このシーボルト事件によって、関係した数十人の日本人が家禄没収や流罪などの処罰を受け、地図を渡した高橋 景保(かげやす)は獄死する。
シーボルトは国外追放処分となって日本から追い出された。
この時シーボルトは、2歳だった娘の養育を門人の二宮敬作にお願いする。
「心得た」と敬作は、事件の余波で半年ほど獄にぶち込まれた後、町医者になって約束どおり先生の娘を呼び寄せて養育する。
この娘が日本人女性で初めて産科医となった楠本 イネ、別名「オランダおいね」だ。
1854年に日本が開国した後、シーボルトに対する追放令も無効化された。
1859年に再び来日したシーボルトは、開業し産科医として活躍しているイネを見て敬作の義理堅さに涙を流したという。
終わり良ければすべて良し。
まあ、シーボルト事件で処罰された人はどう思っているか知らないけど。
楠本 イネ(左)と娘の高子
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