人が渡っているのに橋が落っこちた!
そんな落橋事故で「21世紀最悪」と呼ばれているのが、2018年にイタリアのモランディ橋が崩壊して43人が命を失った事故。
そして人類史上、最悪の落橋事故と言われるのは、1807年に1400人を超える死傷者・行方不明者を出した日本の「永代橋崩落事故」だ。
この時、どっちの事故でもキセキが起きた。
モランディ橋の事故では、元サッカー選手のダヴィデ・カペッロが車ごと90mの高さから落下したにもかかわらず、瓦礫(がれき)の間にできた奇跡のような空間に収まって無傷で脱出する。
一方、祭の日に起きた「永代橋崩落事故」にはこんな話がある。
ある人が祭を見ようとウキウキ気分で永代橋に向かっている途中、スリに2両2分の入った袋を盗られた。
それに気づいた彼は、お金がなくちゃ意味ないじゃんとガッカリして家へ帰る。
結果、史上最悪の落橋事故にあわずに済んだ。
後日、その男性の名前の書かれた袋を持っていた遺体が見つかって、祭へ行こうとしたスリが永代橋から落ちて溺死したのだろうと人びとはウワサした。
2両2分が戻ってきた男性はそれを家宝にしたかも。
一度に多くの死傷者を出す大事故は世界中で発生するし、その際、後世へ語り継がれるようなミラクルが起こることがあるのも共通している。
でも、その解釈は文化圏によって違う。
永代橋でもモランディ橋でも同じタイミングで同じ橋を渡っていたのに、助かった人と無念な人がいた。
生死が分かれた、この差って何ですか?
それなりに合理的な理由があったとしても、「なんでそれがその人だったのか?」は分からない。
だから現代ならイタリアでも日本でも、人知を超えたナニかを感じて「運」と答える人がほとんどと思われ。
では伝統的な考え方だとどうなのか?
江戸時代の日本人は死生観では仏教の影響を強く受けていた。
だから、良いことをしたらハッピーな結果が返ってくるし、その逆なら不幸がおとずれるというカルマ(業)による因果応報を信じていたはず。
みんな同じように永代橋を渡っていたのに、落ちた/落ちない、死んだ/ケガだけで済んだ/無傷だったという差が現れたのは、過去の行為の結果と考えただろう。
男性がお金を失って命を得たのも、悪者がそのツケを払わされたのも「カルマの法則」がはたらいた結果と思うのが日本人の伝統的な発想だ。
そもそもこの話自体、そんな仏教的な考え方によるつくり話の予感。
では、イタリア人ならどう思うのか?
最近知り合った日本好きのイタリア人に聞いてみると、
「その人は善人だったから、神は彼を殺したくなかった。そんな神の意思で彼は助かったのです。」とのこと。
そのあと彼は教会へ行ってキリストや聖母マリアの像に、命を救ってくれたことを感謝するというのがイタリア人的発想らしい。
仏教の因果応報の「カルマの法則」では、それを発動させる主体がよくワカラン。
でも一神教のキリスト教では、この世で起こることはすべて神の意思、神がそう望んだことだとハッキリしている。
神に選ばれた人と、そうではなかった人の差は何だったのか?
その無慈悲な理由を知るのは神だけで、ヒトにできることはそれを勝手に想像し、自分はその恩恵を受けられるようキリスト教での善行に励むことだけ。
同じ大事故にあっても生死が分かれる現実を見れば、日本人もますます仏教を深く信じるようになったはず。
話を聞いたイタリア人によると21世紀のいまでも、九死に一生を得た人がいると「神の意思」をその理由に考えることはイタリアでは常識的だ。
仏教でもキリスト教でも、特定の人が救われたことは善行で説明できる。
でも、「人が渡っているのに橋が落っこちた!」となった場合、日本人ならそれを“起きた”と理解し、キリスト教の考え方では“神が起こした”となって根本的に違う。
カルマの法則か、神の意思(神に選ばれた)のか?
これはいまでも、日本人とキリスト教文化圏の人との考え方の違いになっている。
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