【戦時の空気】日本、敵性語の駆逐に成功し戦争に負ける

 

いまウクライナでは「Z」と「V」を使うことができない。
というのはロシアと戦争をしているウクライナでは、ロシアに対する印象は激しい憎悪しかないから。
それでウクライナ議会は、ロシア軍の象徴である「Z」と「V」をシンボルとして使うことを禁止した。
もちろんロシアとは関係ない教育などでは、この文字を使っても問題ない。

日本でも昭和初期、アメリカやイギリスと対立するようになったころから、英米文化を社会から排除する動きが始まって、太平洋戦争に突入するとピークになる。
英語やそれに由来する言葉は「敵性語」として駆逐のメインターゲットになり、その時代の日本の空気に合った言葉に変えられた。

例えばトンボ鉛筆は鉛筆の濃さの表記をこうする。

「HB」→「中庸」(ちゅうよう)
「H」→ 「1硬」(こう)
「B」→ 「1軟」(なん)

アナウンサーが「放送員」、ニュースが「報道」になるのはまあ理解できるとしても、これは難易度が高い。

「軍粮精」(ぐんろうせい)
「油揚肉饅頭」(あぶらあげにくまんじゅう)
「辛味入汁掛飯」(からみいりしるかけめし)

答えはそれぞれ「キャラメル」、「コロッケ」、「カレーライス」のこと。

 

「鬼畜欧米」の空気は芸能界を直撃し、それで困った人もいた。
1908年のきょう10月5日に生まれたディック・ミネもその一人。
徳島県出身で三根 徳一(みね とくいち)という名前を持つ彼は、ディック・ミネの芸名でジャズやブルースの歌手をしていたが、1940年(昭和15年)に内務省から、カタカナの名前はやめるよう指示が出て仕方なく「三根耕一」となった。

漫才師の「秋田Aスケ・Bスケ」は「徳山英助・美助」になり、歌手の「ミス・コロムビア」は完全アウトで、本名の松原 操(みさお)に戻す。
この時代に巨人軍で投手として活躍したロシア人、ヴィクトル・コンスタンチーノヴィチ・スタルヒンは「須田 博(すだ ひろし)」に改名。

 

ディック・ミネ

 

ヴィクトル・スタルヒン

 

昭和初期には愛国心が高まった。
そんな時代に歌手をしていた三笠静子は、昭和天皇の弟が三笠宮家を創立したことから、「三笠」をやめて「笠置シズ子」に改名する。

俳優の「藤原 釜足」(ふじわら かまたり)は、忠臣だった藤原鎌足をいじった芸名は皇室への不敬になるということで、国(内務省)から改名を命じられて「藤原鶏太」へ。

 

藤原 釜足

 

こんなふうに日本は国内の英米文化を排除することはできたが、アメリカとの戦争には負けた。
戦時中、フィリピンで日本軍と行動をともにしていた軍属の小松真一氏が敗北の原因を書いている。
その中のひとつに日本の人命軽視があった。

日本は余り人命を粗末にするので、終いには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気付いてしまった。生物本能を無視したやり方は永続するものでない。

「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条  (角川oneテーマ21) 山本 七平」

 

日本は敵性語とかいう、無抵抗の雑魚キャラを退治することには成功した。
でも、兵士の命を無視・軽視するようなムチャな作戦を立てて、ムダに犠牲を増やしたり餓死に追い込んで結局は負けた。
気持ちを高めただけでは、現実には勝てないのだ。

 

戦後の日本を元気にしたのは「東京ブギウギ」という“敵性語”だった。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。