先日の6月1日に、岸田首相は「こども未来戦略会議」を開催した。
ドンドン進む日本の少子化を食い止め、反転させるラストチャンスはまさにいま! ということらしく、これからの日本のこども・子育て政策について次の2点を重視していくと首相は語る。
・経済成長を実現させて、子育て世代の所得を伸ばす。
・児童手当や子どもの通園制度の取組などの施策を、スピード感をもって実施していく。
日本政府はわりとホンキで、そのためにかける予算を子ども一人当たりでみると、OECD(経済協力開発機構)でトップクラスにあるスウェーデンに達する水準になるという。
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それでも国民の立場からすると、政府のツッコミどころは尽きないとしても、時代ガチャでいえば令和に生まれた子どもは幸せだ。
少なくとも人権をはく奪されて、野良犬や猫と同じように扱われた昭和の時代の子どもに比べれば。
浜松市の北部には方広寺というでっかいお寺がある。
太平洋戦争の末期、1945(昭和20)年になると、米軍による日本本土への無差別爆撃が行われるようになる。
だから都市部にいた親たちは、自分の子どもを爆撃のない遠いところへ避難させた(学童疎開)。
浜松市では当時、この方広寺が疎開地になって大勢の子どもが寝起きしていたという。
まえにインド人を連れてきた時にそんな話をすると、「親として当然だな。自分でもそうさせる。子どもだけは、何があっても助けたいという思いは世界中のどこでも同じだよ」という。
その年の8月15日、日本がアメリカに降伏して戦争は終わった。
するとその後には、疎開していた間に家族が全滅した子どもを含めて、両親を失った孤児が急増して社会問題になる。
厚生省が調べた結果(1948年)によると、そんな戦争(戦災)孤児は約12万3500人いた。
政府は彼らを引き取ってくれる家庭を探したり、養子縁組の斡旋(あっせん)したりしたが、すべてを救済することは現実的に無理。
それで駅の切符売り場に立ってチケットを買う人から釣り銭をもらったり、待合室で弁当を食べている人から食べ物をもらったりして、物ごいとして生きる子どももいた。
路上のタバコを拾い集めて売ったり、物あさりや紙くず拾いをしたりして何とか死なないようにする。
当時の政府や国民には余裕がなかったから、餓死したり、絶望して自ら命を絶ったりした孤児もいたという。
靴みがきをする女の子の戦争孤児 (東京・1947年)
彼らは生きるために必死だ。
だから、盗みやスリなどの犯罪行為に走る子どもも多く、「戦争孤児=犯罪者」というイメージができて世間の目も冷たくなる。
街に住みついていた戦争孤児はやがて「浮浪児」と呼ばれ、社会のジャマもの扱いされるようになった。
そして占領軍(実質アメリカ)の命令から、日本政府は街中で生活していた浮浪児を見つけては車に”載せて”、収容所へぶち込んだ。
この警察による浮浪児の発見・強制収容を「狩込(かりこみ)」という。
トップ画像の子どもたちは「狩込」をうけて、東京のお台場にあった施設に収容された浮浪児たち。
これだけ見ると、犬や猫の扱いと変わらない。
「自分はいいからこの子だけは」と思って亡くなった親の魂が、この光景を見なかったらいいのだけど。
こうした子どもたちの問題は1960年代ぐらいまであったらしい。
令和5年の常識や価値観から、終戦直後の日本を批判しても意味がない。
OECDでもトップクラスの予算を子どもに使ういまの日本ではなく、“時代ガチャ”に外れた子どもたちがいた歴史を知って、こんな悲惨なことが二度と日本で起こらないようにするしかない。
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