桜がきれいに咲いたから、東アフリカ出身のルワンダ人と花見に行くと、公園でこんな看板を見つけた。
「なあ、何て書いてあるんだ?」と聞く彼に、日本にはマムシという毒蛇がいて、年間10人ほどが噛まれて死亡しているから、あの看板はそれに注意しろと呼びかけていると教えてあげた。
すると、彼は「本当か! そんな危険なところでピクニックなんてしたくない。花見はやめよう」と言い出して面倒くさいことになる。
「“ゴミを捨てるな”と書いてあると言っとけばよかった」とプチ後悔。
韓国語では、知識を得たことで不安になってしまう状態を「知ることは病気だ(아는 것이 병이다)」という。
日本人の生活でもそんなことは起こると思うが、「知ることは病気」に相当する日本語表現が思い浮かばない。「知らぬが仏」という言葉ならあるけれど。
世の中には知らなくていいコトも多いのだけど、それをほじくり返すやっかいな人もいるのだ。
朝鮮日報の記事(2024/04/08)
女性侮辱妄言で物議の共に民主・金俊ヒョク候補、今度は「幼稚園のルーツは親日」
韓国ではあした10日に総選挙が実施される予定で、ここ数日、国会議員を目指す候補者たちが全力で選挙運動を行っている。
そんな中、ある候補が過去にこう主張していたことが明らかになった。
「幼稚園のルーツは親日の歴史から始まった」
「親日派が作った最初の幼稚園は京城幼稚園だ」
「このように骨の髄まで染み込むように親日教育をさせたことが、まさに我が国の幼稚園の始まり」
こう指摘された側は当然、激怒した。
「親日」は一般的には良い言葉だ。
しかし、韓国社会では「売国奴」や「裏切り者」といった邪悪なニュアンスがあり、このレッテルを貼られた人物は社会的にまっ殺される可能性すらある。
1910年から1945年まで韓国は日本の統治下にあり、日本の教育システムが導入された。
現在に続く韓国の幼稚園教育も、この時代にはじまったことは間違いないが、その後は独自の教育制度が発展し、幼稚園も日本とは別ものになっているはず。
統治時代のころには日本からさまざまなものが伝わり、現在の韓国社会でもそれは残っていて、よく「日帝残滓」と呼ばれている。
残滓(ざんし)とは「残りカス」というかなりネガティブな意味。
韓国で日帝残滓には禍々(まがまが)しいイメージがあって、社会や国民の精神を“浄化”するために、日本時代の残りカスは除去しないといけないことになっている。
とはいえ、完全に駆除することは現実的には不可能だ。
芸術、文学、科学、技術、権利、大統領といった日本語由来の言葉を、別の韓国語に置き換えることは無理だろう。
韓国の通貨単位「ウォン」は「圓(円)」の韓国語読みで、これも日帝残滓のひとつだけど、今になって変えるのは現実的じゃない。
以前の韓国では、日本で言う小学校を「国民学校」と呼んでいた。
しかし、この名前も日本時代のものだったため、「植民地の残滓を清算し、民族精気を正す」という目的で、1995年に「初等学校」に変更された。
同じ理由で、「幼稚園」も別の言葉に変えなければならないという主張が教育界にある。
数年前、ソウルの教育庁が市内の全学校に対し、「学校内の有形・無形の日帝強占期植民残滓を調査し、その結果を4月30日までに提出せよ」という指示をだした。
具体的には、次のようなものがその残滓にあたる。
・旭日旗に似たデザインの校章
・「東西南北・第一・班長・副班長・気を付け・礼」といった言葉
・親日派の疑いのある文筆家や音楽家が作った校歌
こうした「残滓」を調べて報告しないといけなくなり、学校現場は混乱した。
文在寅(ムン・ジェイン)前大統領の時代に、こんな動きが全国的の小中高校で起きて、学校の玄関にあった過去の日本人校長の写真をすべて撤去したり、校歌や校標を別のものに作り変えたりする学校もあった。
愛着のあった校歌や校標がじつは「日帝残滓」と分かり、“駆除”されたことにショックを受けた卒業生もいたと思われる。
すると、こんな無分別なレッテル貼りに疲れて、「なんでも親日残滓と規定するな!」と反対する人たちも現れた。
一部の人たちが「正義」や「公正」の名の下に、親日清算に血まなこになる韓国では、「知ることは病気」という現象がよく起こる。
【日本統治】“以前の韓国に人権はあり、幸せだったか?”で物議
「マムシ注意」の看板ですか。そんなの日本だったら、都会はともかく、少し郊外に出れば学校の裏山とか、田んぼの横の草むらとか、そこら中にありますけどね。今でも全然珍しいものじゃありません。東アフリカのルワンダって、毒蛇くらいいないのですかね?
まあおそらく、日常のリスクに対する注意喚起の必要性に対して、日本人と彼らとでは感覚が違うことによるものだとは思いますが。
> 韓国語では、知識を得たことで不安になってしまう状態を「知ることは病気だ(아는 것이 병이다)」という。
> 日本人の生活でもそんなことは起こると思うが、「知ることは病気」に相当する日本語表現が思い浮かばない。
うーん、その違いこそが、「学問」に対する両国民での価値観の違いの現れでは。
我々日本人にとって「学問で知識を得る」ことは、誰にとっても、そのこと自体が尊い行為であるとみなされるのが普通です。決して、立身出世を果たしたり金儲けに役立てたりするための手段というだけではありません。(日本人が100%そうであるとは、もちろん言わないが。)
韓国人にとって「知ることは病気(でもある)」という考え方がそれほどポピュラーであるのは、「学問で知識を得る」こと自体が、社会全体で、あまり肯定的に評価されてないからではないですか? 彼らを見ていると、何と言うか「学問なんて無駄なことで面白くはないが、高い地位を得るためには必要だから勉強している」という感覚が非常に強いように思います。学問の「尊さ」「面白さ」「生き甲斐」「誇り」に気づく人がそれほど少ないとしたら、不幸な世の中ですね。
仕事や生業(なりわい)についても同じことが言えますけど。