ガダルカナル島での大敗北 なぜ日本は戦線拡大したのか?

 

太平洋戦争中の8月7日は、こんな悲惨なことが起きていた。

1942年にソロモン諸島の戦いにおける「フロリダ諸島の戦い」で、日本軍が突撃攻撃を仕掛けるも、米軍に返り討ちにされてほぼ全滅した。
同時に、同じくソロモン諸島の戦いで、米軍がガダルカナル島に上陸し、「地獄の戦い」がはじまった。
そして、1945年のこの日、本土では「東洋一の兵器工場」といわれた豊川の軍需工場が米軍の爆撃を受け、働いていた子どもたちを含め、約2500人が死亡。

ソロモン諸島はオーストラリアの北東にある島々で、ここから北上すると、日本に到達する。
以上の3つの中で特に有名なものが、太平洋戦争で日本軍が初めて経験した本格的な地上戦である「ガダルカナル島の戦い」。
この戦いにはこんなポイントがある。

まずは、状況が悲惨すぎた。
日本軍の死者約2万人のうち、米軍との戦闘で亡くなったのはおよそ5000人で、残りの約1万5000人は飢えと病気で死んだとされている。
陸軍の兵士たちはあまりに激しい飢えに苦しみ、戦友の死体を食べた者も出てきて、ガ島(ガダルカナル島)は「餓島」と呼ばれるようになった。

そして、この戦いがターニング・ポイントになったという点。
それまで日本陸軍は米軍に対し、「圧倒的じゃないか、我が軍は!」というほど優位に戦いを進めていたが、ガダルカナル島の戦いで敗北したことで一転し、その後は劣勢に立たされ、防戦一方となってしまった。
なんで、こんなことになったのか?

 

1941年の12月、日本陸軍がマレー作戦を、海軍は真珠湾攻撃を開始して太平洋戦争がぼっ発。そして香港、マニラ、シンガポール、ビルマの米英軍を駆逐し、インドネシアからはオランダ軍を追い出し、東南アジアをほぼ掌握した。
この南方作戦は日本軍の予想を超える結果となり、それで気を良くした日本軍は当初の作戦を変更してしまう。

海軍は太平洋戦争がはじまる前、米軍艦隊が太平洋を移動して日本へ移動している間に、ちょくちょく攻撃を仕掛けてダメージを与えつづけ、敵艦隊が弱体化したところで主力戦艦による決戦を行うことで、米軍艦隊をたたきつぶせると考えていたらしい。
しかし、南方作戦の成功を見て、海軍は方針を変え、ハワイやオーストラリアの攻略を主張しはじめた。こんなことは当初の計画には無かったのに。

一方、陸軍は別のことを考えていた。
陸軍はインド方面にいたイギリス軍を倒した後、中国を降伏に追い込み(当時は中国とも戦っていた)、占領した東南アジア地域を確実に日本のものにすることを考えていた。
だから陸軍は、太平洋地域に積極的に進攻しようとする海軍の戦略には賛成できなかったのだ。
*4000海里は7408キロメートル。

海上四〇〇〇カイリ離れたオーストラリアまで進出することには、兵站の点からも困難であるとして反対した。これは、陸海軍の用兵思想の差から当然のことであった。

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兵站(へいたん)とは後方から前線へ、戦闘に必要な兵士や物資を供給することを指す。

海軍の場合、何週間分もの食料や弾薬などを艦船に積んで移動することができるし、戦況が不利になったら、離脱することもむずかしくはない。だから、海軍には、追加で補給する必要性はあまりなかったが、陸軍はそうじゃない。
大規模な地上戦を戦うためには、十分な物資を送り込めるように、兵站線を確保しないといけない。その補給線が長くなるほど、困難さは増大する。
陸軍は「重く」て、海軍ほど簡単な行動はとれないため、一度決めた作戦を撤回することは困難だった。

そんなことで、陸軍は戦線を拡大することには消極的だったから、「推してまいる!」とオーストラリアにまで攻め込もうとする海軍のテンションにはついていけなかった。
しかし、陸軍も、アメリカとオーストラリアの連携を断つ必要性は感じたし、南方作戦の大成功で「元気」が出てきたこともあって考えを変え、結局は海軍の方針に同意した。
「これで勝つる!」と日本軍は考えたのだろうが、1942年6月、ミッドウェー海戦で海軍は大惨敗してしまう。

【舐めプ厳禁】ミッドウェー海戦で、日本軍が大敗北したワケ

それまで海軍は連戦連勝をつづけてきたが、この敗戦でその後は劣勢になる。

 

この海戦の2ヶ月後、ガダルカナル島の戦いがはじまった。しかし、補給線が日本軍の能力以上に長くなり、食料を前線に送り届けることは不可能になってしまった。結果、日本軍は内側から崩壊していく。

やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。

ガダルカナル島の戦い

 

こうして、戦闘での死者をはるかに超える餓死者を出し、1943年1月に日本軍はガダルカナル島から撤退した。
海軍敗北のターニング・ポイントがミッドウェー海戦なら、陸軍のそれは「餓島の戦い」だ。
その後、米軍は日本軍を撃破しながら太平洋を北上していき、1944年7月、サイパン島を占領すると、ここを基地として、ついに日本本土への爆撃が可能となる。
それが45年の豊川の悲劇につながった。

南方作戦の後、陸軍が戦線拡大を拒否し、東南アジアの占領地域の確保と中国との戦いを優先していたら、一体どんな結果になったのか。
8月になると、そんな歴史の「タラレバ定食」がよく出てくる。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。