「To be, or not to be: that is the question.」
(生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。)
シェークスピアの作品で主人公のハムレットがそう悩んだ。
そしていま日本では現地の事情を置いといて、「ウクライナは戦うべきか、それとも降伏するべきか」の議論が行われている。
朝日新聞(2022年4月15日)
戦うべきか、否か 篠田英朗さん、想田和弘さん、山本昭宏さん
ロシアの軍事侵攻に対し、ウクライナの軍や国民が必死になって抵抗している。
それで当初はすぐに首都キーウが落とされるとみられていたのに、一か月以上たったいまでもウクライナは持ちこたえている。
ただ徹底抗戦の代償として、軍や市民にはどうしても多数の犠牲者がでてしまう。
それでこの記事では侵略を受けた時、戦うべきか否かについて専門家が意見を述べている。
これは有料会員記事だから、その具体的な中身までは分からない。
敵が攻めてきた場合、戦うべきか降伏するべきか?
その二択にネット民はこう思った。
・軍人は戦うべき
国民はそれぞれの判断じゃね?
・千羽鶴でも折ってろ
・島国ニッポンどこにも逃げれないー
・国民も戦える国を目指すなら、義務教育で体育に戦闘訓練をやらないと。
・戦わざる者、住むべからず
・日本も沢山の死者を出してからこれ以上は無理と降伏した過去があるだろ
・日本人は漫画読んでるから極限状態になると覚醒して必殺技使えるようになるから強いよ
「戦うべきか、否か」の答えは、戦っている相手にもよる。
きのう4月16日は第二次世界大戦中の1945年に、「ベルリンの戦い」が始まった歴史的にとても重要な日だ。
この前年の6月、ソ連軍とドイツ軍がベラルーシで激突し激しい戦いが始まる。
短時間で考えられないような数の死傷者を出して、ギネスブックにも載ったこのバグラチオン作戦で敗北し大打撃を受けたドイツはポーランドのあたりまで撤退した。
翌1945年1月、ついにソ連軍はドイツ領内へ進撃。
ドイツ軍をねじ伏せながら進軍を続けて首都ベルリンに迫ったソ連は、1945年4月16日に攻撃を開始して(ベルリンの戦い)、ヒトラーを自殺に追い込み(4月30日)、ドイツから無条件降伏を引き出して戦闘を終える。
すると赤軍(ソビエト)兵士による“狩り”が始まった。
ソビエト軍の報復は苛烈を極め、多くの女性がソビエト軍将兵により強姦され、数多くの市民が自殺した。(中略)10万人が赤軍兵士による性暴力の被害者となり、うち10%前後が性病にかかったとされている。強姦された女性は心理的外傷を負い、10万人のうち1万人前後が死亡した。
多くの市民が殺害されて、貴重品は略奪されてもソ連軍の司令部は放置する。
ソ連兵はこうした戦争犯罪のほか、日ソ中立条約で中立関係にあった日本国大使館に侵入して、大使館員の時計や食料を奪うとか占領下のベルリンでやりたい放題をした。
ヒトラーの死を伝えるアメリカの新聞
ソ連軍は日本にたいしても鬼畜だった。
この年の8月15日に日本が降伏をすると、英米軍は戦闘をストップする。が、ソ連軍はそれを無視して襲いかかり、満州や樺太などにいた多くの日本人女性が暴行され、子どもや老人は虐殺されて貴重品は根こそぎ奪われた。
北方領土をとられて未だに返還されてないのは、日本国民なら誰でも知ってる常識だ。
くわしいことはこの記事を。
ほかにもソ連は投降した約60万人の日本の軍人や民間人をシベリアへ連行し、奴隷的な強制労働をさせて約6万人を殺害した。(シベリア抑留)
アメリカ軍はこの点は違っていたから、一緒にするのは不公平だ。
フィリピンで降伏して米軍の捕虜になった石川 欣一氏はこう感心する。
既にプリゾナーとなり、保護に身をゆだねた者は、どこまでも保護するという態度は、喧嘩相手が「参った」といって地に倒れた上は、それをいかに憎み怨んでいたにせよ、ツバをひっかけたり、足蹴にしたりしないという、フェア・プレイの精神のあらわれであろう。
「比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦 (石川 欣一)」
フェア・プレイの精神がある相手ならともかく、ソ連に降伏しても意味はない。
現在のウクライナでもロシア軍によるレイプ、民間人の虐殺、強制連行などが明らかになってきている。
「降伏すれば敵は武器を置いて、自分の命や人間として最低限の生活を保障してくれる」なんて期待はお花畑すぎる。
「戦うべきか、否か?」の答えはやっぱり相手によって違う。
【ロシアのマトリョーシカ】有名になったワケ・意味・日本との影
三島由紀夫「日本人には威張り、外国人にはヘイコラするというのが、明治(建国)初年の通訳から、戦後占領時代の一部日本人にいたる伝統的な精神態度でありました。 これが一ぺん裏返しになると、外国人を敵視し、ヒステリックな症状を呈し、日本を世界の中心、絶対不敗の神の国と考える妄想に発展します。」
出典:「不道徳教育講座」(1960年)