太平洋戦争の終わりごろ、米軍による日本の都市への無差別爆撃が始まると、親たちは子どもを安全な場所へ避難させるようになった。(学童疎開)
こうした空襲で日本中の都市が大きな被害を受け、2度の原爆投下をくらって完全に力尽き、日本は1945年8月15日にアメリカに降伏する。
「刀折れ矢尽きる」というボロボロの状態から、日本の戦後は始まった。
疎開中に両親が亡くなるなど、さまざまな理由で親を失った子どもは 12万人以上もいて、そうした戦争(戦災)孤児が社会問題となる。
政府は、彼らを引き取ってくれる家庭を探したりしたが、すべての孤児を救うことはとても無理。
路上で生活し、物ごいや物あさりをして何とか生き延びた子どももいれば、餓死や自殺した孤児もいたという。
靴みがきをする戦争孤児 (東京・1947年)
「同情するならカネをくれ。くれなかったら奪ってやる。」
そう考えたのかは分からないが、盗みやスリなどの犯罪行為に走る孤児も多かった。
彼らは「浮浪児」と呼ばれ、社会では犯罪者のように見なされ、「ジャマもの」扱いされるようになる。
政府は街中にいた浮浪児を見つけると、こんな収容所へぶち込んだ。
警察による浮浪児の強制収容を「狩込(かりこみ)」という。
東京のお台場にあった施設に収容された浮浪児たち。
これだけ見ると、彼らの扱いは野良犬や猫と変わらない。
しかし、当時の日本はとても貧しかったから、こうした子どもたちにきちんと世話をする余裕なんてなかったのだ。
しかし、日本人の復興する力は驚異的で、日本経済はすぐによみがえった。
1953年ごろには戦前の最高水準を超え、1956年10月には経済白書で自信満々に「もはや戦後ではない」と宣言するまでに、日本は急速に成長した。(高度経済成長)
日本経済が戦前の水準に回復した1954年、日本は途上国へ技術協力を行う国際組織「コロンボプラン」への加盟を決定。
それまでマーシャル・プランなどの援助を受けていた日本は、このとき初めて援助国となり、国際協力を行うこととなる。
現在に続く ODAのはじまりだ。
この重要な日がきのう10月6日だったから、現在ではこの日が「国際協力の日」になっている。
敗戦国となり、焼け野原から再出発した日本は、さまざまな困難や混乱を乗り越え、すぐに経済力を回復し、支援をされる国からする国へ変わった。
そんな日本人の復元力は控えめに言ってグレート。
戦後の日本の支援は、東南アジアの人たちの生活を便利にし、今ではさまざまな国で感謝されている。
日本の支援を伝えるミャンマーのバス
日本の支援で完成した、メコン川にかかる「キズナ橋」。
カンボジアはこの橋を日本との絆にしようと考え、その日本語を橋の名前にした。
ドイツ大使館の“戦争ツイート”に日本で反発、さらに中韓も参戦
因みにその復元力には種も仕掛けも有りまして。
西太平洋利権をエサに米軍へ国防を丸投げし、節約した防衛費と人材リソースを国土復興や経済発展に注ぎ込んだ戦後日本政府の政策の妙ですね。
そして憲法9条を口実に防衛負担増とアメリカの要求による海外派兵を拒否し、イスラム緒国家などから無用な恨みを買わずに済みましたし。
なお戦前日本国民の防衛負担がどれだけ重かったかは、対ロシア(ソ連)にアメリカ、中国などを想定可能なだけに相当なキツさだと思います(なので、現在の韓国みたくマスコミに扇動されやすかった)。
ODAによる慈善事業も、戦前の失敗を生かした経済的安全保障の一環でしょう。
日本政府としては相手国に、宣戦布告するより友好関係の方が得と思わせられればこっちのモノかと。
それも1つの見方ですね。