1919年の「赤い夏」 全米で起きた激しい人種暴動

 

日本人は奴隷制度という蛮行が嫌いだった。
戦国時代の末期、来日したヨーロッパ人が男女を問わず、たくさんの日本人を買い取り、手足に鉄の鎖をつけて船底に押し込んで、海外へ輸出していた。
ヨーロッパ人が日本人を動物のように扱っていることを知った秀吉は、「外道の法」と激怒する。
それが、「日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する」というバテレン追放令につながった。

1万人の『日本人奴隷』:秀吉、ヨーロッパ人の奴隷貿易に怒る

しかし、ヨーロッパでは引き続き行なわれ、イギリスでは1833年のきょう8月28日、 議会で奴隷廃止法が制定された。
アメリカでは1865年に奴隷が解放された。

アメリカの奴隷制度が「完全」に終わったのはいつ?

 

アメリカで奴隷制度が無くなり、黒人は解放されて自由の身になったが、白人の蔑視や差別は終わらなかった。
1919年の夏にそれが爆発し、アメリカの36以上の都市で人種暴動事件が発生する。
主に白人が黒人を襲撃し、リンチをして殺害したが、逆に黒人が白人を殺したケースもあった。これは「赤い夏」と呼ばれ、全米で数百人が亡くなった。

その一例を紹介しよう。
ある白人女性がハートフィールドという黒人男性にレイプされたと訴えた。それが事実かどうかわからないが、白人たちが激怒したことは間違いない。
1919年の6月、白人の暴徒(mob)はハートフィールドを捕まえると、野原に連れて行き、彼の指を切り落として木に吊るした。そして、2000発以上の銃弾を撃ち込み、ロープが切れてハートフィールドが木から落ちると、暴徒は彼の遺体を燃やしたという。

the mob took Hartfield to a field in Ellisville, Mississippi, cut off his fingers, hung him from a tree branch, shot him over 2,000 times, and when the rope was severed and Hartfield fell from the tree, the mob burned his body.

Red Summer

 

1万人の白人がこの公開処刑を見に来て、ハートフィールドの死体は肉片として切り落とされた後、土産物として売られた。
1919年の夏、全米でおびただしい血が流されたことから、「赤い夏」と呼ばれるようになったという。

こんな凄惨な夏になった原因は何か?
1914年から18年まで第一次世界大戦があった。
この間、多くの白人が軍事動員されて戦場へ運ばれたことと、アメリカへの移民が停止されたことで、北東部と中西部の工業都市は深刻な労働力不足におちいった。
このため、多くの黒人が南部からそこへ移動し、それまで白人の労働者がしていたことを彼らがするようになる。
それが白人からは、黒人に仕事を奪われたように見えた。大戦後、祖国に戻ってきた白人は黒人と職を奪い合うことになり、憎悪が高まっていき、1919年の夏に爆発した。

秀吉が「奴隷解放令」を出した約300年後、日本は1919年に第一次世界大戦の講和会議の場で、世界で初めて人種的差別撤廃提案を提案した。
アメリカの黒人たちもこれに期待したけれど、アメリカは反対し、最終的には否決されたことで彼らは失望した。

フランス人権宣言と、日本が知らない人類初の人種差別禁止案

 

あるアメリカの新聞は、ネグロ(黒人の蔑称)がすべての白人の殺害を計画していると報じ、憎悪をあおった。

 

シカゴ人種暴動で、黒人男性が白人から石を投げつけられている。(1919年)

 

アメリカでの黒人への差別や迫害は第二次世界大戦後もつづく。
1955年には、14才の黒人少年エメット・ティルが20代の白人女性に向かって口笛を吹いたことで白人男性が激怒し、きょう8月28日に惨殺された。

【検索するな】1950年代の米社会と黒人少年ティルの死

こういう血の歴史があるから、現代のアメリカ社会では人種差別に対してめちゃくちゃ厳しい。

 

 

アメリカ 「目次」

【奴隷の鈴】日本人の想像を超えるアメリカの奴隷制度

客のニーズに応えると、黒人差別になる日本の社会

日本とアメリカの違いは人種問題:御社で白人と黒人の割合は?

黒人の人種差別問題⑥アメリカの「奇妙な果実」って知ってる?

 

1 個のコメント

  • > こういう血の歴史があるから、現代のアメリカ社会では人種差別に対してめちゃくちゃ厳しい。
    残念ながら、それでもアメリカ社会は完全に人種差別を克服したとは言えません。
    もう20年以上前のことになりますが、米国西海岸シアトルの近郊の町で小規模だが瀟洒なホテルに宿泊した際、「アジア人が俺たちの領域に踏み込んで来やがった」とばかりに数人の若い白人の坊やたちに囲まれて、喧嘩を売られました。私も腕っぷしには多少自信があったので一暴れしてやろうかとも思ったのですが、何ぶん他国であるし、もしも問題を起こせばホストファミリーに迷惑がかかることは明らかですから、ぐっと我慢しました。
    結局、にらみ合いで済んだのですが・・・。

    > ヨーロッパ人が日本人を動物のように扱っていることを知った秀吉は、「外道の法」と激怒する。
    当時の豊臣政権がアフリカとは異なり、そのようにヨーロッパ人に対して強い態度にでられたのは、豊臣秀吉が戦国時代を勝ち抜いた軍事強国(おそらく当時は世界一の陸軍国)であり、日本国を統一できていたからです。でもアフリカ諸国にはそういう人物は残念ながらいなかった。
    このことは現代にも通じる教訓を残しています。つまり、他国からの侵略を受けないためには、強い軍事力をもって防衛線を固めなければならない。その上で、国際問題を解決する手段としては、憲法でも定めるように、「永久に放棄する」という態度を貫くことです。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。