韓国人が京都で一番「胸に届く所」。耳塚の歴史や由来とは。

 

この場所を訪れた韓国の人たちが、こんな感想を書き込んでいる。

・心があまりにも重くなるところです。
・豊臣神社の近くにあって、さらに腹が立つ。
・実際には、鼻の墓であり、朝鮮人12万6千人の鼻が埋まっているという。
・一度は必ず訪れていただきたい
・韓国人なら必ず立ち寄り見なければならい場所。
・耳の墓という言葉イライラする。
・侵略の歴史を誇ることはできない。
・力のない民の悲惨な末路を胸に深く感じるところ。
・韓国人には京都のいずれ美しい場所よりも、ここが胸に届く。
・京都旅行の必須コース。

これは三十三間堂のすぐ近くにある「耳塚」のこと。
修学旅行で京都を訪れる韓国の高校生も、ここに行くと聞いたことがある。

今回は、韓国人にとっては「聖地」のような耳塚について、歴史や由来なんかを知っていきましょう。

 

 

塚という言葉には「墓」という意味がある。
耳塚は「耳を埋めたお墓」と理解していいだろう。
京都の耳塚には、20000もの朝鮮人の耳や鼻が埋められているという。
*「朝鮮人12万6千人の鼻が埋まっているという」というのは間違い。

これは16世紀に豊臣秀吉が朝鮮出兵をおこなったときのもの。

戦国時代の戦いでは、武士が相手を殺したあとに耳や鼻を切り取る「鼻そぎ」ということが行われていた。

日本では戦において討ち取った敵に劓(鼻きり)を行い、切り取った鼻を戦功の証明として用いることがある。切り取った鼻はほとんどの場合、軍目付に提出され、戦後大将が行う首実検によって討ち取った者の武功が判定された。

はなそぎ・日本

 

討ち取った敵が有名な人物なら、その首を持ち帰って証拠とする。
相手がただの兵士なら、耳や鼻をそいで討ち取った証にする。
武士の職場は戦場で、仕事は敵を殺すこと。
倒した敵の数によって、報酬が出るシステムになっていた。
だから、その証拠は必ず必要になる。

 

これは朝鮮出兵でも同じ。
朝鮮半島で敵を倒したら、その鼻や耳をそぎ取っていた。
現代では考えられないことだけど、当時の武士は、これをしないと報酬をもらうことができなかった。
それが彼らの仕事だから拒否権はない。

とはいえ、この行為には武士も心が痛んだのだろう。
こうして耳のお墓をつくって、大々的な供養もしている。

この塚は慶長2年(1597年)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われたようである。

耳塚

 

16世紀に日本軍が朝鮮半島に攻め込んで、朝鮮人の鼻や耳を切り取ったことは事実。
その後、たくさんの僧がお経を唱えて供養したことも事実。

でも、ここを訪れた韓国人の感想で後者のものを見たことがない。
「豊臣神社の近くにあって、さらに腹が立つ」という気持ちはもっともだけど、その秀吉が死者の魂を慰めたことも知ってほしい。
歴史は一面だけではない。

 

耳塚
上に五輪塔がある。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。