【天皇家の家紋】菊の理由は、後鳥羽上皇の怨念を鎮めるため?

 

3月9日は「記念切手記念日」。
それで中国人が日本語の「切手」を見て、「手を切る?ヤクザの指詰め?」とビックリしたという話を前回書いた。
中国語にそんな漢字はないから(少なくともスタンプの意味では)、こんな誤解がうまれてしまう。

日本語と中国語の漢字の違い:「先生・切手」がわかりませんっ

 

明治27(1894)年3月9日、明治天皇・皇后の結婚25周年を祝うために日本初の記念切手が発行された。
このデザインは皇室の家紋である菊の紋章に、雌雄の鶴2羽が描かれたもの。
いまでは考えられないが、当時の日本人には記念切手を発行するという概念がなかった。
これは天皇皇后両陛下の祝典を記念する切手を望んだ、在日外国人のリクエストに応える形で明治政府が動いて実現した。

 

菊花紋のまわりには 「IMPERIAL WEDDING 25 ANNIVERSARY」という表記がある。
当時2銭のこの記念切手は、いまならメルカリでいくらになるのやら。

 

日本初の記念切手が天皇にかかわるものというのは、日本人としては常識的な発想で、そのデザインが皇室の家紋である菊の花になることにも違和感はない。

さて中国文化の影響を受けた日本には「切手」があるんだが、中国にこんなことばはない。
「家紋」も日本独自の紋章で中国はもちろん、東アジアの韓国やベトナムにもない。

1,家紋は今日まで息づいている日本固有の文化であると言っていい。
2,古くより出自といった自らの家系、血統、家柄・地位を表すために用いられてきた。
3,日本だけで241種、5116紋以上の家紋がある。

家紋

 

紋章があるのは日本とヨーロッパだけと言われていて、特に家紋になると、上のようにこれは日本独特の文化だ。
意外に聞こえるかもしれないが、家紋を英語で「come on」と言うのは有名な話。というウソは信じないように。

 

イギリスのウィンザー城で、いろんな紋章と一緒に掲げられた皇室の菊花紋章(右側)

 

この日本文化に興味のある外国人はけっこう多い。
この前もスペイン人を掛川城に案内したとき、こんな家紋をじっと眺めて写真に収めていた。

 

 

経験上、家紋が好きな外国人なら、天皇家の「菊花紋章」と徳川家の「三つ葉葵」は必ずといっていいほど知っている。

 

 

 

徳川家の三つ葉葵については「由来」を見てもらうとして、菊の花が天皇家の家紋になった理由は何か?

その高貴で上品な美しさから、菊は梅、竹、蘭と並ぶ「君子の花(四君子)とされ、日本人に愛でられていた。
平安時代には菊月(陰暦の9月)になると、菊花酒を飲んで邪気を払い長寿を願う風習があったほど、菊はめでたいことの象徴とされ、貴族も菊のデザインを吉祥文様として衣服などに使っていた。
ちなみにいまの日本で菊の花言葉は「高貴」「高潔」「高尚」になる。

この花を特に気に入り、愛用していたのが鎌倉時代の後鳥羽上皇。
後鳥羽上皇が菊の花の模様を服や刀などに付けていて、その後の深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇も自らの印として使っていたことから、菊が天皇家の家紋として定着していく。
だから由来を求めるなら、「菊好き」という後鳥羽上皇の美的センスになる。

 

皇室と同じ菊の花を庶民が紋章に使うことは、当然許されなかったと思うじゃないですか?
江戸時代はそうでもない。
徳川幕府が厳しく制限したのは葵紋で、天皇家の菊花紋は自由だったから、庶民もこのデザインを使うようになる。それで、和菓子や仏具などで菊花の図が全国で用いられた。

幕府が倒れて明治時代になると一般人の使用は禁止され、菊の紋章を使うと罪に問われるようになる。

戦後は国花に準じた花になり、菊花は国会議員の議員記章や国民のパスポートに採用された。

菊は桜と並び、国花に準じた扱いを受ける。日本の国章に準じた扱いを受け、法的には国旗に準じた扱いを受けるため、それに類似した商標等は登録できない

菊花紋章

 

ということで天皇家の家紋の由来をたどると、後鳥羽上皇の”菊好き”にいきつく。
ただ後鳥羽上皇の好みが天皇家のシンボルになった背景には、日本の「御霊信仰(ごりょうしんこう)」があるのでは?

上皇は1221年の承久の乱で鎌倉幕府に負けたあと、京都から離れて隠岐の島へ流されそこで亡くなった。
恨みに思った後鳥羽院は島でこんな無念の思いをつづっている。

「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」

強い無念は怨霊となる。
もし天皇家の人間に不幸や災いがあるとしたら、それは魔物となった自分によるものだと後鳥羽上皇は言う。
詳しいことはここをクリック。

怨霊としての後鳥羽院 

後鳥羽上皇の祟(たた)りを恐れたその後の天皇が上皇の怨霊を「御霊」として崇拝し、菊の花を愛用するこでその魂を鎮めようとしたのだと思う。

 

 

【日本人と天皇】山田優「お疲れ様」、昭和の軍人「天ちゃん」

外国人から見た不思議の国・日本 「目次」

外国人から見た日本と日本人 15の言葉 「目次」

世界の中の日本 目次

多文化共生社会 目次

 

1 個のコメント

  • > 徳川幕府が厳しく制限したのは葵紋で、天皇家の菊花紋は自由だったから、庶民もこのデザインを使うようになる。

    この話なんですが、江戸幕府が開かれる直前の安土桃山時代、二条城(だったか?)を建造した明智光秀に対して、「欄間の飾りに菊の御紋が施してある」のを見とがめた織田信長が、光秀を厳しく折檻したという話をどこかで読んだようなきがします。山岡荘八だったかな?
    そんな話が残っているということは、勤皇派であった織田信長であればこそなのでしょうか。あるいはまた、天皇家の権威をなるべく低めて徳川政権の正統性を高めたかった徳川家康だからこそ、徳川家の紋についてはうるさく取り締まり、天皇家の菊の御紋はライセンス・フリー(?)としたのかもしれません。

  • コメントを残す

    ABOUTこの記事をかいた人

    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。