人間が人間である限り、絶対に口にしてはいけないもの。
それが人肉だ。
といっても、死ぬか生きるかのギリギリのラインに立たされると、そうも言っていられなくなる。
日本人に近い歴史だと、80年ほど前の太平洋戦争中の日本軍で、食べ物がなくなって同じ日本人の肉を食べるカリバリズム(人が人肉を食べる行為や習慣)があった。
フィリピンで日本軍と行動していた、軍属の小松真一氏が虜人日記にこう書いている。
山では食糧がないので友軍同志が殺し合い、敵より味方の方が危い位で部下に殺された連隊長、隊長などざらにあり、友軍の肉が盛んに食われたという。
「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21) 山本 七平」
現代の日本人がこうならないのは、他に食べる物がたくさんあるからで、令和と昭和の日本人に道徳的な違いなんてない。
人類の歴史を見てみると、こんな極限状態におちいって禁断の肉に手を伸ばした不幸な出来事が何度もあった。
今回はそんな人肉食の具体例として次の4つを紹介しよう。
ソ連のロシア内戦
ホロドモール
日本の天明の飢饉
中国の文化大革命
日露戦争中の1905年にロシアで、「血の日曜日事件」が起こった。
これがきっかけでロシア革命がぼっ発し、約300年続いたロマノフ王朝(1613年ー1917年)は滅ぼされ、レーニンを指導者とする人類史上初の社会主義政権が誕生する。
ロマノフ王朝の最後はとても無慈悲で残酷だ。
1918年に秘密警察の銃殺隊が、皇帝の家族7人を地下室に集めて射殺して、そのあと遺体は焼却し、処刑の証拠が残らないよう硫酸で溶かしてしまったという。
革命が終わってもロシア社会は安定することなく、すぐにロシア内戦へ突入し、これによっていわゆる大量の「ロシア難民」が発生する。
画像は「NHK映像の世紀 10集」のキャプチャー
このときロシアを訪れたナンセンがこう証言している。
「ロシアの市場では、公然と塩漬けにされた人肉が売られています。数百万もの人間が飢えと寒さで残酷なほどゆっくりと死を迎えています」
「NHK映像の世紀 10集」
ナンセンは国連の初代難民高等弁務官で、「難民の父」と呼ばれている人。
このとき欧米は、「援助をしたとしても、ソ連の共産党が奪ってしまって人民にはわたらない」と積極的な支援をしなかった。
その結果、飢えと寒さで亡くなった人は900万人にものぼると言われ、埋めることもできないほどの死体の山が築かれた。
ウクライナの国旗は青の空と黄の麦畑をあらわす。
豊かなウクライナの平原はまさにそんな感じ。
画像:Heulwolf
この後すぐ、1930年代に起きた悲劇がホロドモールだ。
このホロドモールという人工的な飢餓は、ウクライナ(当時はソ連)を地獄に変えた。
食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、ドングリやイラクサまで食べた。遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死しており、赤ん坊を食べた事さえもあった。
通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂っていた。
街中に転がる餓死者に集まる群集(ウクライナ)
やがてそれが日常の風景となり、人びとは倒れ込む人(遺体かも)をスルーで通り過ぎるようになった。(1933年)
ホロドールによる死者の数は正確に不明ながら、最大で1000万人に達したとみられる。
この原因は干ばつといった自然現象ではなくて、ソビエトがウクライナでとれる小麦を徴収し、海外へ輸出して外貨をかせいでいたからだ。
飢餓が発生して多くのウクライナ人が死んでも、独裁者スターリンのいる中央政府は小麦は集め続けてそれを輸出に回したため、食糧不足を招いてとんでもない数の人名が失われたという。
不作が続いていたはガン無視で抵抗する農民がいたら弾圧し、過酷なノルマを課して小麦を徴収して、自分たちはそれを外国へ売って金もうけをする。
いわゆる「飢餓輸出」ってやつ。
チェルノゼムという穀物生産に最適な土壌のあるウクライナは、「欧州のパンかご」とか「世界の穀倉」といわれるほど多くの小麦がとれていたのに、政治家が悪魔だとこんな地獄になる。
このとき生き残ることは、肉体的な闘いであると同時に、「人喰い」になるかどうかの道徳的な闘いでもあった。死体を食べることを拒否した人は死に、人肉に抵抗した親は子供より先に死んだという記録がある。
それに対してソ連政権は、「自分の子供を食べることは野蛮な行為だ」と宣言するポスターを印刷した。
ホロドモールはウクライナの民族主義を抑えるために、中央政府があえて起こしたという説もある。
そんなことから2006年以降、ウクライナを含め16カ国で、ホロドモールはソ連によって行われたウクライナ人の大量虐殺(genocide)と認定されている。
Since 2006, the Holodomor has been recognized by Ukraine and 15 other countries as a genocide of the Ukrainian people carried out by the Soviet government.
飢餓によって人肉まで口にしてしまうような悲劇は日本の歴史ではある。
ではここでクイズをひとつ。
江戸時代の三大飢饉ってなに?
答えは、享保(きょうほう)の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉の三つ。
ここでは「天明の飢饉」を取りあげたい。
天明の飢饉
1782~87年の長雨と浅間山大噴火・冷害・水害などによる全国的な大飢饉。特に東北地方に甚だしく、餓死者は仙台藩だけで約30万人という。
「日本史用語集 (山川出版)」
1742年の仙台藩の人口が816,061人とウィキベテアにあるから、この数字からすると、天明の飢饉のときに仙台藩では3人に1人が餓死したことになる。
広島の原子爆弾で亡くなった人の数は約14万人(死者数について)。
何の武器も使わずに、仙台ではこの2倍の人が餓死した。
このときもロシア難民と同じく、「飢えと寒さで残酷なほどゆっくりと死を迎えています」という状態だったのだろう。
天明の飢饉のとき、東北は文字どおりの地獄絵図となった。
このときに人肉が食べられたという記録がある。
杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている
(ウィキペディア)
「ブリタニカ国際大百科事典」にはこうある。
各地で餓死,行き倒れ,病死が続出,なかでも関東,奥羽地方は草根,牛馬はもちろん犬猫,あるいは人肉すら食うという惨状を呈した。
日本史を習っている人はついでにこのことも覚えておこう。
天明の飢饉で日本の社会が大混乱する。
これによって、老中だった田沼意次の失脚が早まった。
中国で文化大革命がおこなわれていたのは、1966~1976年の10年間。
文化大革命(文革)とは、毛沢東が主導して紅衛兵(こうえいへい)を動かし、中国全土に広がった政治運動のこと。
紅衛兵は中国の中学生・高校生・大学生たちでつくられた組織。
この青少年が「中国(毛沢東)の敵」を見つけ出しては、彼らを拷問をしたり殺したりしていた。
中国人作家の鄭氏が広西省で、文革時の「人食い」の調査をおこなっている。
それによると、広西省の武宣県にはこんな記録(県史)があった。
大紀元の記事(2017年10月07日)から。
中学校で生徒らは数名の教員を囲んで暴行した。まもなく呉樹芳という教員は死亡した。造反派のリーダーは「肝臓は体に良い」と言って、肝臓を取り出し、持ち帰った。肉も一部切り取って、生徒17人で調理して食べた。学校中、血痕だらけ、血のにおいが充満していた。
当時、町中に血の付いた棍棒や石が散乱し、バラバラにされた遺体は随所に横たわっていた。すべては「革命」という名のもとで行われていた。
「文化大革命中 広西省で集団人食い=中国政治学者」
この記事を読む限りでは、この人肉食はロシア難民や天明の飢饉とは違って「飢え」のためではない。
なんで中学生が教師を殺してその肉を食べてしまったのか?
その理由がよく分からない。
上の記事には、文革のときに広西省で行われた集団公開処刑の写真がある。
文革時には、中学生や高校生が大人を処刑したこともあったという。
中国の三国志では劉備玄徳が人の肉を食べる場面があった。
でも、「人肉を食べる」というのは、日本人の読者にはショックが大きすぎる。
そこで「日本版三国志」を書いた吉川英治氏は、その場面をカットしている。
この話は現代の日本人にとって共感出来ないエピソードととられるため、吉川英治は『三国志』執筆の際、鉢木を引き合いに出してこの話の解説をしている。
具体的にどんな場面かは上をクリックして見てほしい。
ただ、中国の歴史で人肉食があったとしても、それは今の中国人の常識や考え方とはかけ離れている。
これが「中国の文化」ということはあり得ない。
40代と20代の中国人女性に「三国志で劉備が人の肉を食べた」という話をしたら、「えええっ!本当ですか!?」と目を丸くして驚いていた。
この2人が読んだ三国志には、そんな場面はなかったと言う。
人肉食は今の中国人にとっても共感を呼ぶものではないから、カットされていたのかもしれない。
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ナチスとポルポトの虐殺は知ってた。でもソ連の「ホロドモール」とは何?
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