最近、北朝鮮の船がよく日本海で漂流(ひょうりゅう)している。
韓国のハンギョレ新聞によると、その数は先月の 11月だけで 27件もあった。
11月だけで27件…北朝鮮漁船が相次いで日本海岸に漂流する理由とは
これは、北朝鮮から脱出したかったワケではなく、単に船の装備が古くて、魚やイカを捕っているうちに漂流したケースが多いらしい。
海上保安庁の船に見つけられ、救助された人はラッキーで、秋田県で発見された北朝鮮の船には8人の死体があり、一部は白骨化が進んでいたという。
さて、「漂流」というワードが出てきたところで、知らない日本人にはぜひ知ってほしい人物がいる。
それは「平群広成(へぐり ひろなり)」という遣唐使だ。
彼の人生はまさにアドベンチャーだった。
ベトナムの民族衣装、アオザイ。
アオは「服」、ザイは「長い」を意味するから、アオザイで「長い服」ってこと。
日本でもっとも有名な遣唐使といえば、それは空海だろうか?
この天才を乗せた遣唐使船は中国に向かう途中、漂流してしまったが、何とか中国の福州にたどり着くことができた。
これは幸運な事例で、8世紀の日本の船や航海技術では、そううまくはいかないことも多かった。
734年、平群広成(へぐり ひろなり)たちを遣唐使を乗せた船が、唐から日本に帰るため中国の港を出航した。
しかし、待っていたのは暴風雨だった。
長江の河口部を出発した遣唐使四船は、たちまち暴風にあって散り散りになってしまった
「律令国家と天平文化 (吉川弘文館) 佐藤信」
この4船のうち、大使が乗っていた船は運よく種子島に着くことができた一方、平群が乗っていた船は南へ南へ流され、とんでもないところへ到着してしまう。
判官の平群広成たち百十五人が乗っていた船の場合は、風に流されて遠く東南アジア南方(ベトナム南方)の崑崙国に漂着したのであった。
そこで地元の兵に捕えられ、殺されたり逃亡したり九十余人が疫病で死ぬなどして、生き残ったのは平群広成らわずか四人だけとなってしまい、崑崙王のもとに留め置かれたのである (同書)
「長江の河口部」というのは上海のあたりだと思われる。そこからベトナムの南部は遠すぎる。しかし、平群広成(へぐり ひろなり)は「4/115」という、すさまじいサバイバル・ガチャに勝った。
彼がたどり着いた崑崙(こんろん)国とは、「チャンパ王国」のこと。
首がのびる「ろくろ首」の起源はチャンパの言い伝えにあって、中国人経由で日本に伝わったという説がある。
ベトナムのチャンパに流れ着いた後、平群は唐へ行く船に潜りこみ、とりあえず唐へ戻ることができた。そして、唐から渤海(ぼっかい)という国をとおり、何とか帰国した。
しかし、それにはこんな幸運があった。
渤海(今の北朝鮮のあたり)から日本に帰るとき、2船の船で出発し、平群が乗っていた船は日本にたどり着いたが、もう1つの船は沈んでしまい、全員が海の藻屑(もくず)となってしまった。
21世紀の現代でも、北朝鮮を出港し、死体となった日本へ到着することもあるのだから、平群は本当に神さまから愛されていた。
中国の港を出港してチャンパに流され、奈良の平城京に戻ってくるまでの5年間、平群広成は筆舌に尽くしがたい困難を体験した。
これは映画化されてもおかしくない。
同時に、航海の途中で命を落としてしまった遣隋使や遣唐使の上に、日本の発展があったことも覚えておいていい。
ちなみに、遣唐使の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)も日本への帰路、暴風雨にあってベトナムに流された。彼は日本に帰ることはできず、中国で生涯を終えた。
ネットサイトで、「初めてベトナムに行った日本人は阿倍仲麻呂だった」と書いてあったのを見たことあるけど、日本人初は平群広成だ。
阿倍仲麻呂は760年に、安南節度使に任命されて唐からベトナムに派遣されたから、公式にベトナムに行った日本人なら、阿倍仲麻呂が初めてになる。
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