個人的な話で、まるで自慢話のようで申し訳ないのだけど、ボクと香港のかかわりは深い。
外交官だった父の赴任先が香港で、ボクはそこのインタナショナルスクールに通っていた。
という夢を見たんだ。
初めて行った海外旅行先が香港だったから、ここには思い出があるというだけのこと。
その香港がいま大変なことになっていて、世界の注目を集めている。
でもそれを理解するには、中国の香港の「一国二制度」という仕組みを知ることが重要だ。
ということで今回はこのシステムを説明していこうと思う。
ボクが行ったときはまだ香港はイギリス領(1842年~1997年)で、香港の人たちは「150年ぶりに中国にもどったあと、香港や自分たちはどうなってしまうのか?」と不安と期待の入り混じった思いをもっていた。
といっても正確には、「ほぼ不安しかない」という状態だったと思う。
香港と中国では政治や社会の仕組みがぜんぜん違うから。
イギリスや日本と同じく香港は民主主義&資本主義だけど、中国は共産主義&社会主義の国。
「日本は来年から中国の一部になりまーす。共産主義の国になりまーす」という事態になったら、日本がどうなってしまうか不安で仕方ない。
「でも安心してほしい。これまでの日本の社会制度がすぐになくなるわけではない。法律は中国とちがって、日本は日本の法律でやっていってもいい」と言われたら、とりあえずいままどおりの生活ができるから、かなり安心できるはず。
でもその期間は50年と限られているけど、来年再来年から中国の法律が適用されるよりはずっとマシだ。
そんなことで香港は中国国内にあるけど、もとはイギリス領だったという特殊事情をふまえて、高度な自治が認めらた。
だから中国とはちがう法律で社会や人々が動いている。
これを一国二制度という。
中華人民共和国の政治制度において、本土領域(中国政府が対香港・マカオ関係で自称する際は「内地」)から分離した領域を設置し、主権国家の枠組みの中において一定の自治や国際参加を可能とする構想である。
法律がちがうから、中国本土ではできないこともできる。
表現の自由が認められているから、香港では政府批判も可能だ。
マスコミが政治家を批判することができるし、市民は反政府集会やデモを開くこともできる。
中国でこれをしたら、すぐに人がいなくなってしまう。
でも、認められるものには限界がある。
軍隊を持つことはできないし、外交権もない。
だから香港が外国と戦争をしたり条約を結んだりすることはできない。
これは当たり前で、こんなことは地方ではなくて国家のすることだ。
話はそれるけど、幕末の薩摩藩は「一国二制度」みたいな状態にあった。
薩摩藩は江戸幕府とは別の自分たちのルールや基準で行動していて、勝手にイギリスと戦争をはじめてしまう(薩英戦争)。
でも名目上、薩摩藩は江戸幕府の支配下にあるから、イギリスへの賠償金は江戸幕府が払っている。
ここまでくると、一国二制度を超えて独立国にちかい。
このダブルデッカー・バスもイギリス植民地時代の名残
一国二制度は50年間続くという約束だった。
中国と香港は別々の法律をもってやっていくというはずだったのだけど、ここにきてそれがあやしくなる。
犯罪者を香港から中国へ引き渡すことを認める「逃亡犯条例」の改正案が成立しそうになっていて、いま100万人といわれる香港市民が反対デモをおこなっているのだ。
一国二制度という香港の基本が崩れそうな重大事だから、日本も世界も香港に熱い視線を向けている。
日本の新聞各紙も社説でこれを取り上げていた。
毎日新聞の社説(2019年6月14日)
中国の法律が適用されることはないという安心感が人心の安定を支えてきた。条例改正はその安全弁をなくす意味を持つのだ。
香港の大規模デモ 中国介入への拒絶反応だ
読売新聞の社説(2019/06/13)
香港にいながら、中国の法律が事実上適用されかねない、との懸念が強いのだろう。
香港大規模デモ 国化への危機感が噴出した
こうなると一国二制度は「名前」しかなくってしまう。
いまから20年以上まえ香港に行ったとき、「香港が中国にのみ込まれてしまう」という声が多いなか、「いや、逆に香港が中国をのみ込んでしまうだろう」と言う人もいた。
中国人が香港の自由を知れば、中国社会が香港のようになっていくという考え方だ。
このときは「それもあるかも」と思ったけど、いまになってみると、「という夢を見たんだ」で終わってしまいそう。
おまけ
香港には数年、日本が支配していた時期がある。
地の利を生かしたゲリラ戦法をとるイギリス連邦軍の香港島内での抵抗に当初日本軍は苦戦したものの、12月25日、イギリス軍は降伏し(ブラッククリスマス)、香港は日本軍の軍政下に入った。
1941年12月25日(ブラッククリスマス)の降伏交渉
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