ほんじつ6月23日は「オリンピック・デー」だでー。
日本では日清戦争が起きた1894年のこの日、フランスのクーベルタン男爵の提唱によってパリで会議が開かれて、1896年にアテネで第1回オリンピック大会を開催することがきまった。
このとき同時に、国際オリンピック委員会(IOC)が創立されたことからこの記念日が爆誕。
言ってみれば現代オリンピックの誕生日だ。
来月の7月23日に東京五輪の開会式が行われるのは、このオリンピック・デーを意識してのことのはず。
コロナ禍でなかったら、ワクワク・ドキドキのカウントダウンが始まったのだろうけど。
でも、日本の選手が金銀銅のメダルをどれだけとれるか、楽しみにすることにしよう。
さて過去の五輪ではその3つのどれでもない、「友情のメダル」というモノがあったのをご存知だろうか。
上の人物・西田 修平(1910年 – 1997年)は和歌山出身の陸上競技選手で棒高跳のエキスパート。
早稲田大学在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに出場してみごと銀メダルを獲得。
その後、1936年のベルリンオリンピックでも銀メダリストをゲットした。だけではなく、彼は伝説をつくる。
ベルリン五輪が行われていた1936年の8月5日、棒高跳びの決勝でアメリカ選手が4m35㎝をクリアし金メダルが決定し、残った西田と大江季雄の2人の日本人で、銀メダルをかけて争うこととなる。
西田が4m25を1度目に、大江は2度目に成功したところで、すでに時計は午後9時をまわっていた。
試合時間も5時間を超えて疲れていた2人にドイツ人審判が近づいてきて、君らは日本人同士だし、ここらで競技を終わりにしないかと提案する。(本当なら順位がきまるまで行われる)
疲労・寒さ・空腹のうえ、2人とも同じ記録だったから2等でいいと思ってこれを承諾。
笹川スポーツ財団のホームページに西田のことばが載っている。
「ふたりは同等、どっちが銀メダルでも銅メダルでもよかった。僕はその前のロサンゼルス・オリンピックで2等になって銀メダルをもろうてたから、もういいと思った。それに次の東京で開くオリンピックで金メダルをとれば、金、銀、銅とそろうことやし」
でも翌日の表彰式で、2位が西田、3位が大江と発表されて西田が驚く。
西田が抗議するも、4m25を1度目にクリアしたのは西田だったからこの結果となり、それは覆らなかった。
納得できない西田は表彰台で自分が3位、大江には2位の位置に立たせて、大江が銀、西田が銅メダルを受け取る。
そして帰国後、お互いのメダルを切断してくっつけて、銀と銅が半分ずつの「友情のメダル」を作った。
このエピソードは当時の日本人のハートをぶち抜いて、道徳の副読本に掲載された。
でもこの美談、現代の日本人の感覚からするとどうだろう?
こういう友情物語は基本的に好きだろうけど、メダルを2つに割って作った平等はあまり歓迎されないように思う。
キン肉マンじゃないんだから。
ではあと1か月後、日本人選手の活躍に注目しよう。
こちらの記事もいかがですか?
体操とオリンピックの歴史。始まりは古代ギリシアの「全裸スポーツ大会」
アメリカ生まれの日本文化「ラジオ体操」、海外の反応とその歴史
アメリカ人が見た日本の運動会「何これ軍隊?」「日本人の強さを知ったわ」
イギリス人が嫌いな日本人「馴れ馴れしい」を「フレンドリー」と勘違い
学研の『学習』にあった気がします。5年だっ高6年だったかまでは覚えていないけど。6