この前、日本で働いているインド2人とお寺に行ってきました~。
の続き。
そのお寺のなかにこんな絵があった。
なんとなく、江戸時代の船っぽい。
インド人の彼らが興味を示したのは、ここに描かれている「卍」。

改めて、「卍」ってどんなものかご存知ですか?
大辞泉を見てみると、「仏の胸など体に現れた吉祥の印」とある。
この吉祥(きちじょう)とは「めでたい兆し」のこと。
英語の辞書で吉祥をひくと、「good」「happy」「lucky」などの言葉が出て来る。
だから、卍はとても良い意味。
仏教のシンボルなんだから、悪い意味のはずがないけど。
外国人をお寺に連れて行くと、ときどき卍を「ナチスのかぎ十字」と間違ってしまう人がいる。
そういうときは、「卍は、good、happy、luckyの意味があって、ナチスのかぎ十字とはまったく反対のものなんです」と説明する。
これとは、まったく違うのに。

ちなみに、卍はマークではなくて漢字。
「十」を部首とする六画の立派な漢字になる。
この卍から、一万円の「万」という漢字が生まれたという説がある。

これは韓国のお寺。
韓国でも卍は、仏教のシンボル。
昔の日本で、船に卍が描かれていたことは知らなかった。
「これは、事故にあわないようにするお守りだと思う」
とボクが言うと、「いや、それは違うと思いまよ」とインド人に否定された。
なんだと?
彼らヒンドゥー教徒も、卍をよく知っている。
そもそも卍はインドで生まれたものだから。
それが中国へ伝わって、日本に来た。
今もヒンドゥー教のシンボルとして、卍が使われている。
このときのインド人は、卍を「ソワスティカ」と呼んでいた。
正確な発音は知らないけど、ボクの耳に聞こえた音をカタカナにしたら「ソワスティカ」になる。
イギリス人も「ソワスティカ」と言っていたから、外国人にはこれで通じるはず。
インドの卍(ソワスティカ)意味は、日本と同じで「Good Luck」という。
インド人は、車やバイクといった乗り物にこの卍を描いている。

たとえば、こんな感じ。
インド人の話では、乗り物に描く卍(ソワスティカ)は、事故を避ける魔除けというより「幸運があるように」と福を招く意味のほうが強いらしい。
だからこの清見寺にあった船の卍も、事故を避ける意味もあると思うけど、それ以上に幸運を招いたり、商売繁盛を願ったりしたものだろう。
インド人は、そんなことを話していた。
江戸時代の日本人が、どんな考えでこの卍を船に描いていたのかはよくわからない。
でも、江戸時代の卍に対する感覚や理解は、今の日本人よりインド人のほうが近いかもしれない。

よく店の看板にも卍が描いてある。
これは、千客万来、商売繁盛の意味。
この卍は、もともとはヴィシュヌ神の胸毛だという。

ヴィシュヌ神(ウィキペディア)
ヒンドゥー教の最高神には、ブラフマー(創造神)・ヴィシュヌ神(維持の神)・シヴァ(破壊神)の3柱がいる。
ヴィシュヌ神はその1柱。
ヴィシュヌ神はよく生まれ変わって、いろいろな姿で地上に現れる。
ヒンドゥー教によると、仏教を始めたシャカもヴィシュヌ神の9番目の生まれ代わりらしい。
でも、良い意味ではないけど。
このヴィシュヌ神の胸毛を表したものが、「卍」の始まりだという。
このとき一緒にいたインド人に聞いても、そうだと言う。
やっぱり、卍はもとは神様の胸毛なんだろう。

この卍も商売繁盛の願いをあらわしているのかな?
このとき清見寺で卍を見たインド人は、こんなことを言っていた。
「ヒンドゥー教と仏教は卍を使っている。兄弟の宗教なんだよ」
そうか、仏教とヒンドゥー教は兄弟だったのか。
確かに、母体は同じだ。
その言葉で思い出いしたことがある。
インドを旅行中に、ヒンドゥー教徒のインド人からこんなことを言われた。
「おまえは仏教徒か。なら、ヒンドゥー教徒のオレとフレンドだ。オレはムスリム(イスラーム教徒)よりおまえのほうに親しみを感じよ」
ムスリム(イスラーム教徒)のインド人よりも、日本人のボクのほうに親しみを感じる?
なんで同じインド国民よりも、外国人のほうが自分に近いと思うんだろう?
このことを彼らに聞いてみた。
すると、「う~ん」と考え込む。
「それがインドの大きな問題なんです。ヒンドゥー教徒とムスリム(イスラーム教徒)の仲は良くないんです。私はムスリムも同じインド人だと思ってますけど。でも、ムスリムが嫌いで、外国人でも仏教徒に親しみを感じるヒンドゥー教徒がいてもおかしくはないですね」
インドの大きな問題は、宗教の対立だという。
これは、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒のこと。
インド政府は、ヒンドゥー教やイスラーム教といった宗教の違いを越えて「同じインド国民」をつくりたいと思っているらしい。
そのために、政府はいろいろやっている。
たとえばインドの映画館では、映画が始まる前にインドの国歌が流れる。
そのときは、観客は立ち上がることになっている。
そうした愛国心を強めることをしているけれど、なかなかうまくいかないという。
「自分は誰か?」というアイデンティティーを、「インド国民」ではなくて、ヒンドゥー教徒やムスリムというところにもっていってしまう。
だから日本人であっても、インドで生まれた仏教を信じているのなら、イスラーム教徒よりもヒンドゥー教徒の自分に近いと考える人もでてくる。
宗教はもちろん大事にするけど、同時にインド国民という意識も育てないといけない。
これがインドの大きな課題だという。
これは日本にはない問題だ。
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