「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
この九つの漢字を「九字(早九字)」と言う。
なんとこの九字には、それぞれの文字に呪力が込められているのだ。
だからこの言葉を口にするときは気をつけよう。
うっかり唱えてしまうと、ヤフー知恵袋で相談しないといけなくなる。
むかしの日本では、武士が戦いの前に九字を唱えることがあれば、忍者が呪術として使うこともあった。
九字と九字護身法については、この記事を読んでクレメンタイン。
今回は、九字と深い関係のある漢字のことを書いていこうと思う。
漢字が持つ尊厳性・神秘性・呪術性について。
伝統的に平仮名や韓国のハングルには、この3つの性質がない。
この点で漢字とは大きく違う。
10月9日は韓国で「ハングルの日」になっている。
言ってみればハングルの誕生日だ。
この日は祝日で、国民はいろいろな活動をして民族固有の文字ハングルに親しんでいる。
ことしは防弾少年団が文化賞を受賞して話題になった。
このハングルにあたる文字が日本語では平仮名になる。
日本も韓国もむかしは漢字を使っていたけど、それぞれ平仮名とハングルという民族文字を生み出した。
同じ民族文字だけど、文字への愛着や誇りでは、きっと韓国人のほうが上。
日本は世界で唯一「海の日」がある国だけど、「ひらがなの日」なんて祝日はない。
たまには平仮名さんのことも思い出してください。
平仮名とハングルには「すげー簡単」という共通点がある。
漢字とは比較にならないほど、楽にすぐに覚えられる。
だから親しみやすいのだけど、文字に”重み”はない。
その点、漢字は複雑でむずかしい。
でも、それだからこそ、漢字には呪力が宿ると信じられてきた。
九字のような人を超えた力が宿るのは、平仮名やハングルではなくて漢字だ。
人が神秘性や尊厳性を感じる文字は、自分には読めないような難解な文字だ。
それが呪術性にもつながる。
悪霊除けのお札に書く文字には、平仮名やハングルでは役不足。ではなくて力不足だ。
やっぱり漢字でないと、ありがたみがない。
それも、普通じゃ絶対に読めない漢字の方が効果がありそう。
例えばこんな護符とか。
中国・道教の護符
漢字のことは中国人がよく知っている。
中国の小説家で思想家の魯迅(ろじん:1881年-1936年)は、 「且介亭雑文」で漢字の持つ神秘性・尊厳性・呪術性についてこう書いている。
符(まじない札)が邪気をはらい病を治すというのは、つまりその神秘性に頼ってのことである。文字が尊厳性を含むとすれば、文字を心得た人も これについて尊厳となってくる。かつ文字を心得た人がふえると文字の神秘性を損なうこと になりかねない。まじない札の威力は、それに書かれた文字のごとき異様な印が、道士のほかには、誰にも判読できないことに由るのである。
「日本人とは何か。(山本七平) PHP文庫」からの孫引き。
漢字には、平仮名やハングルにはない不思議な力がある(と感じてしまう)。
韓国にはムーダンと呼ばれるシャーマン(呪術師や霊媒師)がいる。
神の力を借りて現代医学では治癒できない病気を治したり、悪霊を退散させたりする。
このムーダンが持っている護符も漢字で書かれている。
ハングルで書かれた護符もあるかもしれないけど、例外的なものだろう。
韓国人の友人は「ムーダンは怖いです。お世話になりたくありません」と言っていた。
ハングルと平仮名は読み書きが簡単だ。
易しい文字だから神秘性や尊厳性はない。
だから呪術性もない。
これらは漢字に特有の性質だ。
「りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん」では悪霊は退散させられない。
やっぱり「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」がいい。
明治時代、日本に住んでいたアメリカ人モースがこんな記録を残している。
寺院の前は人の黒山で、廊下にある大きな箱に銅貨を投げ込み、手をたたき、熱心に祈っていた。僧侶達は、見受ける所、大法会をやり、そして天運を授与しているらしい。すくなくとも彼等は、戸の上に張りつけて悪霊の侵入をふせぐ、小さな紙片を売っていた。
「日本その日その日 03 (モース エドワード・シルヴェスター)青空文庫」
この悪霊除けの紙片も漢字で書かれていたはず。
タイのバンコクで見た悪霊除けの札(八卦)
漢字に込められた力で家を守っている。
おまけ
世界史を勉強している人は、中世ヨーロッパでは、この記事の漢字にあたる言葉がラテン語で、平仮名やハングルにあたる言葉が庶民の言葉と思ってほしい。
ラテン語
古代ローマ帝国およびカトリック教会の公用語。中世西欧においては知識界の共通語として使用され、イタリア語・フランス語・スペイン語などの基となった。
「世界史用語集 (山川出版)」
ラテン語はカトリック教会の言葉で、庶民は聞いても意味が理解できなかった。
だから尊厳性・神秘性・呪術性がを持っていた。
宗教改革のとき、ルターがラテン語を翻訳して誰にでも聖書を読めるようにしたから、カトリック教会は尊厳性や権威を失ってしまった。
お寺には漢字がふさわしいし、かわいさをアピールするなら平仮名が最適解。
でも間違った言葉には尊厳性はない。
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