1902年の1月25日、北海道で日本最低気温となるー41.0℃を記録した。
ということで毎年この日は「ホットケーキの日」になっている。
同じ理由から、この日は「中華まんの日」でもあるのだ。
3年前なんだが、ローソンがこの日にこんな中華まんを投入したことがある。
いまでは冬のお約束となったこの中華まん、その起源をたどるとお隣の中国に行きつく。
中華まんの定義にもよるが、小麦粉でつくった皮の中に具材を入れるというシンプルなものなら、3世紀の諸葛公明が作らせたといわれる。
伝説的軍師にも、日本の豚角煮まんを食べさせてあげたかった。
では、現在の日本のコンビニやスーパー販売されてる中華まんは、いつ、どのようにうまれたのか?
大正時代に中国へ行って「包子」(パオズ:具の入った饅頭)を見かけた日本人が帰国後、「天下一品 支那饅頭」を売り出したのが日本の中華まんの始まりという。
*「支那」は中国のこと。いまでは侮辱語だから使用はNGですよ。
日本での「中華まん事始め」には諸説あるものの、この説が有力だ。
ただ日本人と中国人では好みが違うから、中国のものをそのまま再現しただけでは受け入れられない。
そこでその日本人は油の多い中華まんをあっさりした味付けに改良したところ、これが日本人に受けた。
じつはその前から中華料理店などで中華まんが売られていらしい。でも、本場の味は日本人の好みには合わなかったようだ。
このおじいさんは戦前の日本を代表する東洋史学者で、「京大の学宝」と呼ばれた内藤湖南(慶応2年 – 昭和9年)。
古代中国は政治的にも文化的にも超先進国で、日本をふくめ周辺国はその文化を積極的に吸収していた。
でも、中国人と外国人は別の人間だ。
だから、中国のものをそのまま使い続けるのはなくて、ある時代になると「民族の自覚(独立)」がうまれ、別のものをつくり出すようになると内藤湖南は指摘する。
國民が或る他の文化を繼承しても、或る時代になると自覺を來すのが普通で、日本に限らず支那の附近にある後進民族は、例へば漢代の匈奴の如きも、支那文化の刺激によつて民族を形づくつた以上は、民族の獨立といふ自覺を生じた。
「日本文化とは何ぞや(其一) 内藤 湖南」
この自覚によって、中国皇帝と対等な立場と考えた周辺民族の匈奴(きょうど)は「単于」という呼称を使い始める。
単于(ぜんう)とは皇帝のような存在を表す。
日本は日本で聖徳太子が天皇を「日出処の天子」(ひいづるところのてんし)、中国皇帝を「日没する処の天子」と表現して、隋の皇帝・煬帝を激怒させたという。
まぁ学問的なことはここまでにしよう。
食文化でも事情は同じ。
中国や海外にあった食べ物を日本で広めるためには、ただの「コピー」ではなくて、日本人のセンスに適応したものに変える必要がある。
そのことは、本場中国の中華まんで勝負したら失敗したけど、油を少なめにした中華まんが成功した事例からもわかる。
時代は21世紀だから、それぞれの民族が自覚や独立の感覚をすでに持っている。
*ちなみに内藤湖南によると、日本人に民族の自覚をうながした最も大きなきっかけは、13世紀に中国軍(モンゴル軍)を撃退した元寇だった。
日本人は特にその感性が敏感というか好奇心旺盛で、海外由来のものを魔改造して独自のアイテムを発明してしまう。
中華まんだけでも、
てりやきチキンまん、チーズまん、塩豚まん、海鮮まん、グラタンまん、餃子まん、もんじゃまん、チョコレートまん、カスタードクリームまん、キャラメルまん、プリンまん、さくらあんまん、焼き芋(安納芋)まん
などなど、とんでもないバラエティーを生みだした。
「豚角煮まん」なんて中国でもないだろう。
ヨーロッパ由来のキットカットも、酒、ゆず、抹茶といった和風テイストに魔改造してよく欧米人を驚かせる。
中華まんに詰まっているのは、日本人の発想や文化の特徴なのだ。
おまけ
中国南部の川
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毎日これだけ幅広く深い内容を書けることに舌を巻く思いです。男子三日会わざれば刮目して見よ、とはまさにその通りですね。これからも楽しみにしています。
ありがとうございます!
ネタはいろいろあって、書く方が追い付いていない状況です。
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