きょう8月19日は「俳句の日」や「バイクの日」だ。
バイクに乗って全国を旅しながら、各地の風景や人の様子を俳句で詠む「令和の松尾芭蕉」もいるかも。
タイムスリップをして鎌倉時代を見てみると、1281年のこのころ日本は「絶対に負けられないバトル」をしていた。
元・高麗の連合軍が攻めてきたことで始まった元寇の真っ最中で、この日には「弘安の役」における鷹島沖海戦があった。
鷹島(たかしま)は長崎県にある島で、ここの歴史は元寇と切り離すことはできない。
一回目の文永の役では、上陸してきた元軍によって鷹島の住民はことごとく殺害され、生き残ったのは2人だけだったという。
この襲撃の際、まったく空気の読めないニワトリが鳴き声を上げたため、元軍の兵に家が見つかってしまい、隠れていたおばあさんを除く一家7人が殺された。
それでその地(開田)では、ニワトリを飼わなくなったという。
鷹島には、元寇での激しい戦いをいまに伝える地名がアチコチにある。
鎌倉の御家人が元軍兵士の首を斬って、それを積み重ねたところは「首除き(くびのき)」と呼ばれていて、そこには石碑が建てられた。
「まつうら観光物産協会」のホームページ(鷹島史跡めぐり)では、日本軍と元軍との壮絶な戦いを物語るこんな地名(旧名を含め)が紹介されている。
「血浦、首崎、胴代、地獄谷、前生死岩、後生死岩、鬼塚」
なんで血・鬼・地獄といったダークワードがいくつもあるのかというと、鷹島は元寇における最終決戦がおこなわれた激戦地だから。
弘安の役がおこなわれていた1281年8月19日、鷹島沖に停泊していた元軍の艦船に対して、鎌倉武士の乗る軍船が攻撃を仕掛けた。(鷹島沖海戦)
この海戦によって九州本土への上陸が先延ばしになったところへ、暴風雨が元軍を襲ったという。
これで大ダメージを負った元軍に日本軍は再び攻撃をおこない、元軍の軍船をほぼ全滅状態にする。(御厨海上合戦)
この後、日本軍は鷹島にいた約10万の元軍との最終決戦に臨むと、総攻撃によって元軍を壊滅させ2~3万の兵を捕虜とした。(鷹島掃蕩戦)
日本は元軍に対して、海でも陸でも無慈悲なほどの勝利を収めて元寇を終わらせる。
でも歴史の授業では「暴風雨による“ラッキーな勝利”」みたいな、鎌倉の御家人の奮戦を無視するような記述が多いような?
実際には、御家人は積極的に戦いをしかけて勝利を重ねていたのだ。
そのことは鷹島掃蕩戦で惨敗した後の、無残で無情な情景を漢詩でこう詠んだ元軍側の人間がよく知っている。
「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」
首除き、血浦、首崎、胴代、地獄谷、前生死岩、後生死岩、鬼塚といったブラック地名は元寇でのこんな戦いによってつけられた。
元寇で最後の決戦場となった鷹島には、現在ではこんな観光施設があってしたたかに逆利用しちゃってる。
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