数年前、日本に住んでいたインド人(20代・男性)を浜松市内にあるお寺へ連れて行った。
彼は寺の中に飾られた絵を見つけると、満足そうにこう言った。
「この絵の人物はインドの衣装を着ている。わが国の影響が日本にまで伝わっているのを知ると、誇らしく感じるな」

たぶんシッダールタ(ブッダ)が城を抜け出して出家するところ。
転輪聖王|武力ではなく「法」で治める理想の王
たしかにインド文化の影響力は絶大で、東南アジアや東アジアに大きな影響を与えた。
その一つに「理想的な王」の姿がある(Chakravarti (Sanskrit term))。
古代インドの思想では、もっとも素晴らしい王は武力ではなく、「ダルマ(法)」によってこの世界を正しく統治すると考えられ、そんな王の概念を「転輪聖王」といった。
ダルマは単に法律だけではなく、人々が守るべき正しい行いや秩序なども意味している。
転輪聖王は、王として求められるすべての条件をそなえた真の統治者であり、道徳によって世界を導く「究極の王」だ。
ここでは、その具体例としてインドのアショーカ王とタイのチャクラパット王、そして後醍醐天皇を紹介しよう。
とくに後醍醐天皇に重点を置く。
インドのアショーカ王とタイのチャクラパット王
インドの歴史において、転輪聖王の代表例とされるのがマウリヤ朝のアショーカ王だ。
紀元前3世紀、彼はカリンガ戦争をおこなって多くの人びとが死亡した(一説には20万人以上)ことに心を痛め、暴力による支配を反省して仏教に深く帰依することになった。
この戦いの後、アショーカ王は暴力を否定し、ダルマによる政治を目指したという。
こうした姿が転輪聖王に重ねられた。
仏教とともに転輪聖王のイメージはアジア各地へ広まり、各国の君主たちに影響を与えた。
タイの歴史では、アユタヤ王朝のチャクラパット王(1509年 – 1569年)が自分自身を転輪聖王と同一視した。
彼の名前であるチャクラパットとは、サンスクリット語で転輪聖王を意味する言葉に由来するタイ語だ。
ただし、彼の時代、アユタヤはビルマとの戦争に敗北して属国となったから、「名前負け」している感は否めない。
当時のタイでは、王は単なる政治的支配者ではなく、宗教的にも正しい存在であることを示すことが重要だったのだろう。
ちなみに、タイ人に日本の天皇をタイ語で何というのか尋ねたら、「チャクラパット(จักรพรรดิ)」という答えが返ってきた。
転輪聖王と後醍醐天皇
神仏の力で権威を確立しようとした
日本の統治者としての自覚
日本の歴史において、転輪聖王を強く意識したと思われるのが後醍醐天皇だ。
後醍醐天皇は武家政権である鎌倉幕府を倒し、みずからが中心となって建武の新政をはじめた。
後醍醐天皇は、日本は将軍ではなく、天皇によって統治されるべきだと考えていた。だから、天皇が直接政治をおこなう「親政」という形をとった。
醍醐天皇(885年- 930年)はすぐれたリーダーシップで政治をおこない、その治世は後世から理想的な時代とされた。
後醍醐天皇はその醍醐天皇をモデルにして、その後継者として「後醍醐」と名乗ったのだろう。
神仏と一体化した天皇像
後醍醐天皇は支配者としての正統性や権威を確固たるものにするため、宗教の力を最大限に利用した。
たとえば、密教僧の文観上人(もんかんしょうにん)を自分の護持僧(霊力によって天皇を守護する僧)とし、密教の最高到達点を示す瑜祇灌頂(ゆぎかんじょう)を授けられた。

右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持っているのは、菩薩である金剛薩埵と同じ構図だ。
つまりこの絵は、後醍醐天皇が自身を金剛薩埵(こんごうさった)と一体化していることを示している。
天照皇大神・春日大明神・八幡大菩薩の神道の三神とも同一化し、後醍醐天皇は天皇の政治的権力である「王法」、仏の教えである「仏法」、日本の神々である「神祇」のすべてを統合する象徴となったことを表している。
アショーカ王は仏教の教えによる政治をおこない、チャクラパット王は仏教の守護者として振る舞い、後醍醐天皇は仏教と神道を取り入れて自身の権威を高めようとしたのだ。
「金輪王寺」に込められた意味
後醍醐天皇の人生はとても不安定だった。
日本の実質的な支配者だった鎌倉将軍(正確には執権)を倒し、自分が日本の統治者となって新しい政治をはじめたが、すぐに足利尊氏によってつぶされた。
その後、京都と吉野に2人の天皇が存在するという南北朝時代をむかえた。
この時代、だれが本当の日本の支配者かよく分からない、混沌とした状態が続いていた。
そんな背景があったからこそ、後醍醐天皇は、過去の天皇に類例がないほど神や仏の権威を利用し、自身の正統性を確立しようとした。
そんな後醍醐天皇が、仏典に登場する転輪聖王を意識しても不自然ではない。
タイのチャクラパット王のように転輪聖王を名乗ったことはないが、後醍醐天皇が転輪聖王を意識したという「証拠」はある。
後醍醐天皇は足利尊氏の攻撃を受け、京都から奈良の吉野へ逃れた。
吉野で実城寺を「金輪王寺(きんりんのうじ)」と改名し、みずからの行宮(あんぐう:天皇の仮の御所)とした(吉野行宮)。
転輪聖王には金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王の4種類があって、金輪王はその最上位にいる。
後醍醐天皇は北朝の天皇ではなく、自分こそが真の統治者だと信じていた。
自分の住むところを「金輪王」と名づけた動機には、後醍醐天皇が転輪聖王を意識していたことがうかがえる。
実城寺を金輪王寺に改名した動機は不明だが、AIに聞くと同じ答えが返ってきた。
「自分を“金輪聖王(=仏教的な理想の世界王)として位置づけるための政治的・宗教的な演出だった」(ChatGPT)
「仏教における理想の帝王である「金輪王」に自らをなぞらえ、「自分こそが天下を治める正統で絶対的な君主である」と世に誇示するためです」(Gemini)
転輪聖王にはなれなかった後醍醐天皇
「転輪聖王に俺はなる!」と宣言したわけではないが、呪術的な考え方を信じた後醍醐天皇が、日本における転輪聖王を体現しようとしたのは間違いないだろう。
しかし、現実は残酷だった。
京都を奪還して日本の統治者になる夢がかなうことなく、後醍醐天皇は実質的には「地方領主」として吉野の地でその生涯を閉じた。

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