いまから3日前、5月12日は「看護の日」だった。
それで前回、「日本の看護士は多すぎじゃね?」という記事を書いたのだけど、ところで、5月12日がなんで看護の日(国際看護士の日)になったか知ってますか?
看護士には「白衣の天使」というイメージがある。
いまでは男性看護士も増えているけど、このイメージもまだあると思う。
その元祖天使、ナイチンゲール(1820~1910)が生まれたのが5月12日だったことから、この日が看護の日になったわけだ。
ということでこれから、彼女の人生やその時代をみていきましょう。
聖母は戦争から生まれた。
フローレンス・ナイチンゲール
1820年5月12日、新婚旅行先のフィレンツェで生を受けたことで、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられたナイチンゲールは、「超」がつくほどのお嬢さまだったらしい。たぶん「かぐや様」並みの。
当時のイギリス・ヴィクトリア王朝時代のお嬢さまというと、まさに天上界の人。
でも裕福な家庭で高い教育をうけたナイチンゲールは、慈善訪問で目にした貧しい農民の生活に心を激しく動かされた。
そして自分の一生を「奉仕」にささげたいと思うようになる。
*宮本百合子の著書には、ナイチンゲールは看護師の仕事を志したあとに貧民の生活を見たとある。
娘から看護士になりたいと聞かされた母親は、「立派な娘になって‥」と涙を流した。
ということはなく(泣いたの本当らしい)、19世紀なかごろという時代において、病人の世話をするというのは「まとも」な仕事と思われていなかった。だから親は大反対。
当時のイギリスで、看護士をするのはこんな人たちだった。
他のまともな正業には従えない女、主としてもう往来を歩くには年をとりすぎたアルコール中毒の淫売婦あがりの婆さんたちであった。
「フロレンス・ナイチンゲールの生涯 (宮本 百合子)」
むしろ入院するべき。
いまでも、きつい・汚い・危険の「3K」と呼ばれることのある看護士の仕事だけど、この時代のイギリスでは「不徳、冷血、不潔でおそろしいもの」であったという。
酒を飲みながら仕事をするのが普通だったらしい。
でも25歳のナイチンゲールはその世界に飛び込むことを決意する。
その後いろいろあった末に、ナイチンゲールはクリミア戦争の野戦病院でけが人や病人の看護をすることになった。
それが1854年、日本では日米和親条約を結んで開国した年のこと。
一年中使える不凍港がほしくて南下するロシアとトルコ・イギリス・フランスなどが1863年に激突したのがクリミア戦争。
この戦争は日本の開国にも影響をあたえた。
くわしいことはこの記事をご覧あれ。
これは直接関係ないけど、このクリミア戦争では、のちに世界的文豪となるトルストイがロシア軍の兵士として参加していた。
これはまったく関係ないのだけど、トルストイの最期の言葉は「あの女(妻ソフィア)を近づけるな」だったという。
そんな妻ソフィアは、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェと一緒に「世界三大悪妻」に数えられることもある。
天使・ナイチンゲールと悪妻・ソフィア、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い。
さいきんこの言葉がマイブーム。
クリミア戦争
クリミア戦争に向かったころ(1854年あたり)のナイチンゲール
野戦病院はこの世の終わりのようなところだった。
けが人は麻酔なしで手足を切断されることがあったし、手術をしたために感染症を起こして亡くなる人もいた。
麻酔なしとか、歯の治療でも無理。
病院で死んだら死体は外に運ばれて、大きな穴に放り投げられる。それでその人の人生は終わり。
それでも、治療を受けられるだけマシかもしれない。
クリミア戦争の野戦病院では、患者の治療の優先順序を決める「トリアージ」が行われていたから。
トリアージについてはこの記事をどうぞ。
命の“選別”・トリアージとは?その歴史や日本での訴訟事例など
人手も医療物資も限られていたから、「もう何をしても助からない」と判断された患者は治療を受けられなかった。
食べ物すらあたえられないこともあっただろう。
ナイチンゲールが勤務していた病院には、あらゆる劣悪がそろっていた。
巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち 満ちていた。
「フロレンス・ナイチンゲールの生涯 (宮本 百合子)」
粗末な建物の下には下水が走っていて、常に汚物の臭いがただよっていた。このときはマスクなんてなかっただろう。ナイチンゲールたちは毎日、鼻のねじ曲がりそうな悪臭のなかで仕事をしていたはず。
病院には下痢患者が多くいて、水洗設備のないトイレはとんでもないことになっていた。
汚水は床にあふれ、強烈な悪臭に満ちていたという。
それを見たナイチンゲールは「お掃除作戦」を展開する。
彼らは下水の中に「悪臭」を放っている大量の動物の死骸とゴミを発見し、それらをすべて除去した。そして、下水溝を消毒し、壁に潜んでいた害虫をすべて石灰で駆除した。
「闘うナイチンゲール (徳永 哲) 花乱社」
この処置によって、熱病にかかって死ぬ人間は減少した。
ところでこのとき、手袋はあったのだろうか?
クリミア戦争時の野戦病院では、こうやって衛生環境を良くしていくという発想がなかったかほぼ皆無で、医療衛生の面で革命的な役割をはたしたのがナイチンゲール。
このときトリアージ・システムによって、見殺しにされた負傷兵にも命の輝きを見出し、それを尊重したのもナイチンゲールだった。
献身的な彼女はいつしか、「クリミアの天使」と呼ばれるようになる。
いまでいう「白衣の天使」の誕生だ。
見捨てられた患者をみてまわるクリミアの天使
上の絵のように夜間もランプを持って夜回りをしていたことから、彼女は「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。
でも本人は、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と言ったという。
下痢水に大量の動物の死骸とゴミ、さらに壁にひそむ害虫をすべて取り除いたナイチンゲールはまさに戦う天使だった。
…という良い話を3日前の5月12日に書きたかったのに。
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