【おじ VS おい】古代日本の最大の内乱・壬申の乱が起きたわけ

 

血のつながっている者同士が“殴り合う”ことを「骨肉の争い」と言って、現代の日本では遺産相続をめぐってこの争いがよく起こる。
今回紹介するのは古代の日本で起きた、おじとおいによる骨肉の争いだ。

 

天武天皇

 

686年のきょう6月20日、 天武天皇が病に倒れ、治療(というか祈祷)をしても効果はなく、天皇はそのまま帰らぬ人となった。
天武天皇といえば、古代日本で起きた最大の内乱・壬申の乱の主人公として有名だ。

この争いが発生する前、天武天皇は「大海人皇子(おおあまのみこ)」として兄の天智天皇をサポートしていた。
*大化の改新で活躍し、白村江の戦いを行った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が天智天皇になった。

当時のルールとしては、次の天皇は弟の大海人皇子になるはずだったが、天智天皇は息子の大友皇子に自分の跡を継がせたいと考えていて、大海人皇子もそんな兄の思いを察していた。
天皇が病気で亡くなる前、大海人皇子を呼んでこう言った。(以下のセリフは想像)

「なあ、弟よ、俺はもう長くない。俺が亡くなったら、おまえに天皇の座を譲ろうと思うんだが」

これを聞いた大海人皇子は、「まじかっ! やったぜ。いや待て自分。今、兄は試しているんだ。ここで野心を見せたら、きっとオレは殺される!」と思い、こう言った。

「いえいえ、私にはそんな器はありません。次の天皇には、大友皇子の方がふさわしいです。私はこれから出家して、吉野(いまの奈良県)へこもって生活します」

天智天皇はこの言葉を聞いて安心した。

こうして大海人皇子も次期天皇に大友皇子を推し、自分は頭を丸め、妻(後の持統天皇)を連れて吉野へ去っていった。
この時、朝廷には未来を見通せる人がいたらしく、「虎に翼をつけて放った」とつぶやく人もいたという。この不幸フラグは実現し、大友皇子はすぐに虎に襲われた。

兄の死後、672年に大海人皇子が立ち上がり、大友皇子の軍勢と戦い、瀬田川の戦いでの勝利が決定打となって、皇子を自害に追い込んだ。名前と違って、彼はまったくアマクなかったのだ。
この壬申の乱で勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位する。

 

大海人皇子が反旗を翻し、大友皇子を倒そうとした動機には諸説あり、その一つに「やむを得ず説」がある。
朝廷では出家した大海人皇子を危険視し、彼を滅ぼそうと考えたらしい。
それで、吉野に通じる道を閉ざし、食べ物を運べないようにした。また、吉野にいた大海人皇子は朝廷が武器を集めているという話を耳にした。
戦いが避けられないのなら、先手必勝、大海人皇子は自分から討って出ようと決意し、吉野を脱出して大友皇子の軍と戦った。

これとは別に、大海人皇子は最初から天皇になる気マンマンで、お坊さんになったのは、兄の天智天皇を信用させるための「偽装」だったとする説もある。この説によれば、大海人皇子は僧侶のコスプレをして情勢をうかがい、「時は来た!」と判断し、袈裟を脱いで武器を持ったことになる。

「壬申の乱」で天武天皇は大友皇子との戦いには勝ったが、骨肉の争いを繰り広げたことで心を痛めたらしい。自分の子どもたちには、お互いに助け合い、争うことのないようにと言い聞かせたという。
それで、686年の6月20日に天武天皇が病に倒れ、そのまま亡くなった後、皇后が持統天皇として即位し、兄弟の間での皇位をめぐる争いは起きなかった。
(大津皇子が謀反の罪で処刑されるという闇はあった。)

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。